2011年06月19日 10:25
秋口ぎぐる「いつか、勇者だった少年」読了。ライトノベルの主要キャラクターの特権性を風刺する面白い作品です。
いつか、勇者だった少年 (朝日ノベルズ)
サキ傑作集 (岩波文庫 赤 261-1)
秋口ぎぐるさんのライトノベル「いつか、勇者だった少年」読了。うーん…。なんとご紹介したらよいか悩む作品です。僕は面白かったですが、普通にライトノベルを楽しんでいる読者さんが、普通にライトノベルを楽しもうと思って読んだら、不快になってしまうだけかも…。本作は、ライトノベルで描かれるような非日常の刺激を味わうために行動する、エキセントリックな涼宮ハルヒタイプの少年が主人公なのですが、こいつが本当に邪悪なキャラクターなのですね…。変わり者だけど根は常識人で思いやりを持つ善人である涼宮ハルヒとは違い、本書の主人公は自分がライトノベルのような非日常の刺激を楽しむためなら幾らでも他者を犠牲にする、しかも他者を傷つける行為に対して全く良心の呵責のない、サイコパス的な冷血としか言いようのないどうしようもない邪悪な主人公なのです。「邪悪な涼宮ハルヒ」みたいな独特の味わいのあるブラックなメタ・ライトノベルです。
この作品はライトノベルの形式(異能ファンタジー)を使ってライトノベルやRPGゲームを批判風刺するアンチ・ライトノベルなのですが、「涼宮ハルヒ」シリーズや「撲殺天使ドクロちゃん」シリーズなど多くのライトノベルが持っているユーモア、物語における批判風刺の部分を和らげて物語を魅力的にするユーモアの要素が全くなくて、直接的にライトノベルを批判風刺している作風なので、シニカル(冷笑的)で無味乾燥に乾いた感じのする黒い味わいの作品なのですね…。本書はブラック・ユーモア小説というよりは、そのままブラックな小説です。サキの短編小説のような独特の味わいがあって、僕はこれはこれで面白いと思うのですが…、人にお勧めできるかというと、難しいところですね…。下記のサキ「スレドニ・ヴァシュター」とかを読んでその独特の黒い味わいを楽しめる人なら、本書の面白さが分かってくれるかなと思います。逆に、ライトノベルに明るさや夢や希望を求める人は本書は読まない方がよいかなと思います。
「いつか、勇者だった少年」は、異世界に召喚されて冒険したことがある少年が主人公。彼はライトノベルファンで、元々かなりの中二病でしたが、異世界に召喚されそこで世界を救う勇者としてライトノベルそのままの冒険をしたことで、元の世界(いわゆる現実世界の日常)に帰還した後も、異世界での非日常的な命のやりとりの刺激が忘れられず、その刺激を味わうためなら、あらゆる良識を踏みにじり、人々を平然と傷つけ殺すことさえ厭わない、極めて危険な「非日常刺激中毒者」になってしまっているのですね。戦争で人を殺しすぎて良心を根幹的に失い快楽殺人鬼になってしまったベトナム帰還兵のようなキャラクターです。ただ、ここが、作者の秋口ぎぐるさんのライトノベル読者に対する強烈な悪意と毒を感じるところなのですが、本書における邪悪さ、すなわち上記でいうところの「戦争とそこにおける虐殺」は、本書では「ライトノベルで描かれる非日常の刺激的な冒険」と等号(イコール)で結ばれているんですね。本書解説にも書かれていますが、ライトノベル好きに対する物凄い直球の黒い毒ですね…。ロラン・バルトの言葉を使って述べるなら、「ジャンルの偽装を剥いでいる」。
上記を読むとベトナム帰還兵の比喩が分かりやすいかなと思いますが、まさに「ライトノベルで描かれる刺激的な冒険=人間の心身を中毒的に蝕む危険な行為や麻薬」みたいな感じで描かれているんですね。ライトノベルにおいて主要キャラクター以外の人命やモンスターの命が塵よりも軽いものとして扱われることに対する風刺批判があることが、物語内で「ゴブリン問題」に触れているところからも分かります。ライトノベルの一部において、異能を使って行う殺人やモンスターなどに対する殺生は、殺害する相手が重要なキャラクターでなければ物凄く軽く扱われますが(「とある魔術の禁書目録」などは典型的ですね)、実際問題として、生命を簡単に殺しうる異能の力を使って気軽に殺害行為を行っているキャラクターが、その行為によってメンタリティに何の影響も受けないということは考えられないんですよね…。異能の力による殺害行為を法の外側で気軽に行うことで、快楽殺人鬼のような危険なメンタリティに近づいてゆく。通常のライトノベルでは描かれることのない、その不気味なリアリティ(異能の力を持って人々の生死を法の外側から自由にする、ライトノベルの特権的な主要キャラクター達の、その特権性ゆえの歪み)が上手に描けている作品だと思います。
本書は、上記のような異能ライトノベルのお約束、異能ライトノベルの主要キャラクター達は、物語の形式上、物語における主要キャラクターとして選ばれた異能者として特権的に振舞うことができるということを、その特権性ゆえに歪んでいる主人公を描くことで、その特権性を上手に風刺し批判しているなかなかに優れた作品であると思います。僕としては面白い作品でした。ただ、読み手を選ぶ作品ではあると思います…。ライトノベルの中にライトノベルの形式やライトノベルの読者に対する風刺、批判があっても大丈夫なお方々なら、ブラックなメタ・ライトノベルとして楽しめる作品と思います。秋口ぎぐるさんはグループSNEに所属されていますが、現在興隆しているライトノベルというジャンル形式を作った立役者の一つであるグループSNEからファンタジーライトノベルのジャンル形式に対する痛烈な風刺・批判の小説が出てくるという点も、面白いなあと思いますね…。

いつか、勇者だった少年 (朝日ノベルズ)
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サキ傑作集 (岩波文庫 赤 261-1)
秋口ぎぐるさんのライトノベル「いつか、勇者だった少年」読了。うーん…。なんとご紹介したらよいか悩む作品です。僕は面白かったですが、普通にライトノベルを楽しんでいる読者さんが、普通にライトノベルを楽しもうと思って読んだら、不快になってしまうだけかも…。本作は、ライトノベルで描かれるような非日常の刺激を味わうために行動する、エキセントリックな涼宮ハルヒタイプの少年が主人公なのですが、こいつが本当に邪悪なキャラクターなのですね…。変わり者だけど根は常識人で思いやりを持つ善人である涼宮ハルヒとは違い、本書の主人公は自分がライトノベルのような非日常の刺激を楽しむためなら幾らでも他者を犠牲にする、しかも他者を傷つける行為に対して全く良心の呵責のない、サイコパス的な冷血としか言いようのないどうしようもない邪悪な主人公なのです。「邪悪な涼宮ハルヒ」みたいな独特の味わいのあるブラックなメタ・ライトノベルです。
この作品はライトノベルの形式(異能ファンタジー)を使ってライトノベルやRPGゲームを批判風刺するアンチ・ライトノベルなのですが、「涼宮ハルヒ」シリーズや「撲殺天使ドクロちゃん」シリーズなど多くのライトノベルが持っているユーモア、物語における批判風刺の部分を和らげて物語を魅力的にするユーモアの要素が全くなくて、直接的にライトノベルを批判風刺している作風なので、シニカル(冷笑的)で無味乾燥に乾いた感じのする黒い味わいの作品なのですね…。本書はブラック・ユーモア小説というよりは、そのままブラックな小説です。サキの短編小説のような独特の味わいがあって、僕はこれはこれで面白いと思うのですが…、人にお勧めできるかというと、難しいところですね…。下記のサキ「スレドニ・ヴァシュター」とかを読んでその独特の黒い味わいを楽しめる人なら、本書の面白さが分かってくれるかなと思います。逆に、ライトノベルに明るさや夢や希望を求める人は本書は読まない方がよいかなと思います。
ghostbuster's book web 英米短編の翻訳とエッセイ
翻訳のページ
http://www.freewebs.com/walkinon/translation.html
スレドニ・ヴァシター
コンラディンは十歳だったが、医者の見るところ、あと五年は持つまい、と思われた。つやつやした肌色の、間延びしたようなこの医者は、ほとんど無能と言ってもよかったのだが、デ・ロップ夫人だけはたいそうありがたがっていた。もっとも夫人ときたら、なんだってありがたがるのだが。デ・ロップ夫人は、コンラディンの従姉妹かつ後見人で、コンラディンからすれば、世界の五分の三、必要ではあるが、不愉快で現実的な部分の象徴だった。残りの五分の二は、つねに五分の三の部分と対立するもの、つまり自分自身と自分の空想の世界である。いずれそのうち、ぼくはこの必要なことどもの支配に屈してしまうのだろう。病気や、甘ったるい束縛や、果てしなく続く退屈といったものに。ひとりになるととたんに活発になる想像力がなかったら、はるか昔に参ってしまっていたにちがいない。
デ・ロップ夫人は、たとえどんなに正直になる瞬間が訪れようと、自分がコンラディンを嫌っていることは、決して認めようとしなかっただろう。ただし、「あの子に良かれと思って」コンラディンのすることを妨げることが自分の義務であると漠然と感じてはいるらしく、そのつとめだけは面倒だとは思わないらしかった。コンラディンは心の底から夫人を憎んでいたが、完璧にしらを切りとおすことができた。自分が考え出したひとりだけのささやかな楽しみも、夫人がいい顔はすまいと思うとよけいにうれしくなってくる。この想像の王国には夫人など入れてはやらない……不潔なやつなんか。入り口さえ見つけられるものか。
生気のない、気が滅入りそうな庭にいても、庭に面したいくつもの窓のどれかがいまにも開いて、「そんなことしちゃいけませんよ」とか「あんなこともダメですよ」と注意が飛んできたり、「お薬を飲む時間ですよ」と呼び戻されたりしそうで、ちっとも楽しくはなかった。ほんの二、三本しかないくだものの木は、大事にされ、コンラディンがもぐことは固く禁じられていた。不毛の地にやっと花をつけた珍しい植物かなにかのように。だが、くだものを買い取ってやろう、と言ってくれそうな果物屋など、たとえ一年間の収穫全部を10シリングでいいから、と言ったにしても、見つかりそうにはなかった。
ほの暗い植え込みの陰、だれもが忘れてしまった一角に、いまは使われていない、かなり大きな物置があった。そこがコンラディンの隠れ家、遊び場にもなれば大聖堂にもなる、さまざまな顔を合わせ持つ場所なのである。コンラディンはそこに空想のともだちをたくさん住まわせていた。昔話から一部を借りたもの、自分の頭のなかで作りだされたもの、それだけでなく、血肉を備えた二匹の生き物もいた。
一方の隅には毛がくしゃくしゃのウーダン種のメンドリが一羽いて、コンラディンはほかに持って行き場のない愛情を、ひたすらにこの雌鳥に注いでいた。また、ずっと奥の暗がりには、大きな檻があった。ふたつに仕切られた檻の一方は、前面に目の詰まった鉄格子がはめてある。そこは大きなケナガイタチの住処だった。なじみの肉屋の見習い小僧が、コンラディンが長いことかけて密かに貯めた小銭と引き替えに、檻ごと、こっそりと持ち込んだのである。コンラディンはしなやかで鋭い牙を持つこの獣がおそろしくてたまらなかったが、かけがえのない宝物でもあった。
物置にイタチがいることは、秘密であると同時にこの上ない喜びでもあり、細心の注意を払って「あの女」――コンラディンはひそかに従姉妹のことをそう呼んでいた――は遠ざけておかなければならなかった。ある日、まったく自分だけの思いつきで、このイタチにすばらしい名前をつけてやった。そして、そのときからこの獣は神となり、信仰の対象となったのである。「あの女」は信心深く、週に一度近所の教会にせっせと通い、コンラディンも連れて行くのだが、教会の礼拝など彼にとっては信念に反する、まったくなじめないものだった。
毎週木曜日、薄暗く黴くさい、静かな物置のなかで、コンラディンは、偉大なるケナガイタチ、スレドニ・ヴァシター様がおわします木の檻にぬかずいて、神秘的で凝った儀式を行うのだった。赤い花が咲く季節はその花を、そして冬には深紅の苺を神殿に供える。スレドニ・ヴァシターは、荒ぶる神であり、「あの女」が信じる神とは正反対、コンラディンの見方によると、まったく逆の方向、はるか隔たったところにいるのだった。
重要な祝祭日にはナツメグの粉を檻の前に撒く。このささげものの大切な点は、ナツメグは盗まれたものでなければならないことだった。祝祭日は定期的なものではなく、たいていは何か祝い事が持ち上がるたびに定められた。デ・ロップ夫人が三日間、激しい歯痛に悩まされたときは、コンラディンも三日通じてお祝いをし、スレドニ・ヴァシターの力によって歯痛が起こったのだ、と自分でも半ば信じかけたくらいだった。歯痛がもう一日続いたら、ナツメグはすっかりなくなってしまっていただろう。
メンドリをスレドニ・ヴァシターの礼拝に参加させたことは一度もない。ずっと前にコンラディンはこのメンドリが「アナバプティスト」だと決めつけていたのだ。アナバプティストが何のことだかちっともわからなかったけれど、ともかく荒々しい、もったいぶってはいないものにちがいない、と決めていた。デ・ロップ夫人という生きた見本があったから、コンラディンはあらゆるもったいぶったものを嫌いぬいていたのだ。
そのうち、コンラディンが物置に夢中になっていることは、デ・ロップ夫人の知るところとなった。
「どんな天気の日だって、あんなところでぶらぶらしているのだもの、あの子には良くないわ」
そう決心するが早いか、朝食の席で、昨夜のうちにメンドリは引き取ってもらいましたからね、と言い渡したのだった。夫人は近眼の目でコンラディンをねめつけ、怒ったり悲しんだりしてわっと泣き出すのを待ちかまえた。そうすれば、さっそくものごとの道理と教訓を説いて、びしびし叱ってやらなくちゃ、とてぐすね引いていたのだ。
ところがコンラディンは無言だった。言うべきことなど何もないのだ。青ざめ、強ばった表情を見て、さすがに夫人も多少なりとも気が咎めたらしく、午後のお茶の時間には、食卓にトースト、普段なら「コンラディンに良くない」という理由で禁じていたトーストが出されていた。トーストは「手間がかかる」という、中流階級の女性の目からすると許し難い欠陥を持つがゆえに、食卓に上らなかったのだが。
「トーストは好きだったはずじゃなかったの」
手を出さないコンラディンに、デ・ロップ夫人は傷つけられたように言った。
「ときと場合によるよ」とコンラディンは答えた。
その日の夕方、コンラディンは檻に棲む神にまったく新しい礼拝を編み出した。いつもは賛美の詠唱をささげていたのだが、今日は願い事をしたのである。
「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」
願いごとの中味は言わなかった。神であるスレドニ・ヴァシターなら、わかってくれているに相違ない。すすりなきをじっとこらえて、メンドリがいなくなって空っぽになった一隅に目を凝らしたあと、コンラディンは憎むべき世界に戻ったのだった。
それから毎晩、寝室の心落ち着く暗闇のなかで、あるいは夕方の物置の薄暗がりのなかで、コンラディンの悲痛な祈りは続いた。
「スレドニ・ヴァシター、どうかぼくの願いをひとつだけ叶えてください」
コンラディンが物置に行くのをやめようとしないことに気がついたデ・ロップ夫人は、ある日もっとよく調べようとそこに行った。
「錠がかかっている檻のなかに、あなた、何を飼っているの。おおかたモルモットかなんかでしょう。だけどそのうち全部片付けてしまいますからね」
コンラディンは押し黙って答えなかったが、「あの女」はコンラディンの寝室を徹底的に捜し回って、とうとう注意深く隠しておいた鍵を見つけ、すぐさまその成果を確かめに物置へ降りていったのだった。
寒い午後で、コンラディンは家でじっとしているように言いつけられた。ダイニング・ルームの一番端の窓から、途切れた植え込みの向こう側に、物置の扉がうまいぐあいに見通せる。コンラディンはそこに陣取った。
「あの女」が入って行くのが見えた。コンラディンは想像する。「あの女」が聖なる檻の戸を開けて、近眼の目を凝らし、神のおわします積もったわらの床をのぞきこんでいるところを。気短かな「あの女」のことだから、おそらくわらをつついたりするだろう。コンラディンは必死の思いで最後の祈りを唱えた。だけど、ぼくがこうやって祈っているのは、ほんとは信じてなんかいないからだ――コンラディンはそのことを知っていた。「あの女」がいまにも、むかつくような「ほくそ笑み」を浮かべて出てくるにちがいない。一時間か、二時間もしたら、庭師が、偉大なる神を、いや、そうなるともはや神ではなく、ただの檻のなかの茶色いイタチを持っていってしまうのだろう。そうやって勝ち誇ってみせるように、これからもいつだって勝ち誇り、ぼくは「あの女」にまとわりつかれ、「あの女」の好き放題にされ、バカにされ、そうしてだんだん弱ってしまい、医者の言ったとおりになっていくのだろう。コンラディンは敗北にうちひしがれ、悔しく惨めな気持ちを抱えたまま、危機に瀕する神のために、昂然と大きな声で詠唱を始めた。
スレドニ・ヴァシターは進む
胸の思いは血のたぎるごとく、歯はきらめく白
停戦をこいねがう敵に 与えられるのは 死
スレドニ・ヴァシター、美しきもの
不意にコンラディンは歌うのをやめて、ガラス窓に額を寄せた。半開きの物置の扉は、もう何十分もそのままになっている。いつしかずいぶん時間が過ぎていたのだ。数羽のムクドリの群れが、芝生を走ったり飛び回ったりしていた。コンラディンはムクドリを何度も何度も数えたが、片方の目はゆらゆらと揺れる扉から決して離さなかった。
不機嫌な顔つきのメイドが入ってきて、テーブルに夕食を用意し始めたが、コンラディンは立ったまま、じっと外を見守っていた。希望が胸にじわじわと兆してきて、さきほどまでの、打ちのめされても恨めしげにじっと耐えることしか知らなかった瞳に、勝利の色が浮かんでいた。ひっそりと、内心天にものぼるような心地で、もういちど勝利と狼藉の凱歌をうたいはじめた。
やがて見守っていたコンラディンは報いられたのである。扉から、体の長い、丈の低い、黄褐色のけものが姿を現したのだ。顎から喉にかけてはべっとりとどす黒く濡れたまま、傾きかけた日の光に目をしばたかせている。コンラディンは崩れるように跪いた。大きなケナガイタチは、庭のはずれを流れる小川に行って、しばらく水を飲んでいたが、板の橋を渡って、藪のなかに消えていった。それがスレドニ・ヴァシターを見た最後だった。
「お夕食の支度ができたんですけど」仏頂面のメイドが言った。「奥様はどこへいらっしゃったんですか」
「ちょっと前に物置へ行ったよ」
お茶の用意ができた、とメイドが女主人を呼びに行ったあと、コンラディンは食器棚の引き出しからトースト用のフォークを探し出し、自分のためにパンを一枚、焼き始めた。パンを焼いてからバターをたっぷり塗って、ゆっくり楽しみながら食べる。そうしているあいだもコンラディンは、ダイニング・ルームのドアの外が慌ただしくなったり、かと思うと急に静かになったりするのに耳を傾けた。メイドが愚かしい大声で悲鳴をあげている。台所の方から、どうしたんだ、何かあったの、と聞く声がする。バタバタと走り回る音、外へ助けを求めて飛び出す音、それからしばらくの静寂ののちに、怯えたようなすすり泣きが始まり、重い荷物を家の中に引き入れるような音がした。
「いったいかわいそうなあの子にはだれが話すっていうの? とてもじゃないけどわたしにはできないわ!」
悲鳴のような声がそう言った。みながその相談をしているあいだ、コンラディンはもう一枚、自分のためにトーストを作った。
「いつか、勇者だった少年」は、異世界に召喚されて冒険したことがある少年が主人公。彼はライトノベルファンで、元々かなりの中二病でしたが、異世界に召喚されそこで世界を救う勇者としてライトノベルそのままの冒険をしたことで、元の世界(いわゆる現実世界の日常)に帰還した後も、異世界での非日常的な命のやりとりの刺激が忘れられず、その刺激を味わうためなら、あらゆる良識を踏みにじり、人々を平然と傷つけ殺すことさえ厭わない、極めて危険な「非日常刺激中毒者」になってしまっているのですね。戦争で人を殺しすぎて良心を根幹的に失い快楽殺人鬼になってしまったベトナム帰還兵のようなキャラクターです。ただ、ここが、作者の秋口ぎぐるさんのライトノベル読者に対する強烈な悪意と毒を感じるところなのですが、本書における邪悪さ、すなわち上記でいうところの「戦争とそこにおける虐殺」は、本書では「ライトノベルで描かれる非日常の刺激的な冒険」と等号(イコール)で結ばれているんですね。本書解説にも書かれていますが、ライトノベル好きに対する物凄い直球の黒い毒ですね…。ロラン・バルトの言葉を使って述べるなら、「ジャンルの偽装を剥いでいる」。
バルトによれば、言説にはつきもののイデオロギー的作用というのは、まさしく自らがイデオロギーであるどころか、最初から自然な「神話」のように偽装するところにある(バルト「神話作用」1972年)。
(巽孝之「メタフィクションの思想」)
(主人公の隼人は)ひたすら(ライトノベルの形式として描かれるファンタジーの)非日常を満喫しようとする。こうした隼人の抱くある種の狂気こそが物語を動かしていく。(中略)(隼人は)「アンチ・ライトノベル・ヒーロー」としては非常に魅力的な存在といえる。なぜかと言えば、(非日常の刺激を楽しむため、現実世界の人々の平和な日常を軽蔑し踏みにじる主人公である)隼人は、異世界を舞台にしたファンタジーを楽しむ、私達ライトノベル読者のカリカチュア(誇張された風刺画)にほかならないからだ。(中略)
異世界ファンタジーにおいてはしばしば「現実の世界から異世界に召喚される少年(少女)」というキャラクターが出てくるが、これが読者を等身大のキャラクターに感情移入させ、異世界の冒険へとスマートにいざなうための仕掛けであることは言うまでもない。一方、90年代後半から2000年代にかけては、現代伝奇や学園異能、あるいは現代ファンタジーと呼ばれるような作品群が主流となった。物語の舞台は異世界から私達のよく知る現代に移ったが、そこで描かれるのはやはり非日常の物語だ。上遠野浩平「ブギーポップ」シリーズ、高橋弥七郎「灼眼のシャナ」シリーズ、谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズ、新しいところでは井上堅二「バカとテストと召喚獣」といった作品群が、日常(現代世界)と非日常(魔法や超能力のようなファンタジックな要素)が混じり合う様を描き、多くの読者を魅了してきた。
すなわち、ライトノベルの面白さのかなりの部分を、架空の物語の中で「ここではないどこか」あるいは「退屈な日常に非日常が混ざる」ことを見いだすことが占めていたわけだ。そして、これ(非日常の刺激)を異常なほど極端に求めれば、まさに隼人のように行動するしかなくなる。(中略)
おそらく、隼人は好き嫌いが激しく分かれるキャラクターだろう。しかし、彼を嫌う人の多くは一方でどこか惹かれるところも感じるはずだ。なぜなら、彼は私達(ライトノベル読者)の影にほかならないからだ――
(榎本秋。秋口ぎぐる「いつか、勇者だった少年」解説)
異世界に召喚されてしまった。
あの衝撃。
あの感動。
それまでの人生で憧れてきた、理想とした、そして手が届かないとあきらめてきた全ての経験がそこにあった。
いったんあれを味わった以上、元の自分になんて戻れるわけがない。あの経験を忘れて生きていくことなんて不可能だ。むしろ現実の方が現実感が希薄だと感じられる。
だから僕はなんだってできる。あの経験を取り戻すためなら何だってする。こんな現実になんて意味も価値もないからだ。
(秋口ぎぐる「いつか、勇者だった少年」)
上記を読むとベトナム帰還兵の比喩が分かりやすいかなと思いますが、まさに「ライトノベルで描かれる刺激的な冒険=人間の心身を中毒的に蝕む危険な行為や麻薬」みたいな感じで描かれているんですね。ライトノベルにおいて主要キャラクター以外の人命やモンスターの命が塵よりも軽いものとして扱われることに対する風刺批判があることが、物語内で「ゴブリン問題」に触れているところからも分かります。ライトノベルの一部において、異能を使って行う殺人やモンスターなどに対する殺生は、殺害する相手が重要なキャラクターでなければ物凄く軽く扱われますが(「とある魔術の禁書目録」などは典型的ですね)、実際問題として、生命を簡単に殺しうる異能の力を使って気軽に殺害行為を行っているキャラクターが、その行為によってメンタリティに何の影響も受けないということは考えられないんですよね…。異能の力による殺害行為を法の外側で気軽に行うことで、快楽殺人鬼のような危険なメンタリティに近づいてゆく。通常のライトノベルでは描かれることのない、その不気味なリアリティ(異能の力を持って人々の生死を法の外側から自由にする、ライトノベルの特権的な主要キャラクター達の、その特権性ゆえの歪み)が上手に描けている作品だと思います。
「ゴブリンってのはファンタジーに出てくる怪物だよ。まさにさっきのあいつらみたいな魔物。知性があって、群れで暮らしている。たまに人間を襲う。で、本来、RPGの主人公はあいつらを倒すべきなんだが――」
「倒すのはかわいそうなんじゃないか、やめるべきじゃないか、なんて意見が出てきたりする。要はジレンマだね。敵には敵の論理がある、そこをどう扱うか、っていう」(中略)
血と、落ち葉が踏み荒らされている跡を辿っていけば、魔物を追うのは簡単だろう。なんたって相手は怪我をしているのだ。実際、僕はそうした。あっさり追いつき、種を使い、相手を殺した。
せっかくの経験値をみすみす手放すなんて、もったいないじゃないか。
(秋口ぎぐる「いつか、勇者だった少年」)
本書は、上記のような異能ライトノベルのお約束、異能ライトノベルの主要キャラクター達は、物語の形式上、物語における主要キャラクターとして選ばれた異能者として特権的に振舞うことができるということを、その特権性ゆえに歪んでいる主人公を描くことで、その特権性を上手に風刺し批判しているなかなかに優れた作品であると思います。僕としては面白い作品でした。ただ、読み手を選ぶ作品ではあると思います…。ライトノベルの中にライトノベルの形式やライトノベルの読者に対する風刺、批判があっても大丈夫なお方々なら、ブラックなメタ・ライトノベルとして楽しめる作品と思います。秋口ぎぐるさんはグループSNEに所属されていますが、現在興隆しているライトノベルというジャンル形式を作った立役者の一つであるグループSNEからファンタジーライトノベルのジャンル形式に対する痛烈な風刺・批判の小説が出てくるという点も、面白いなあと思いますね…。

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