2011年02月09日 14:45

吉田秀和「世界のピアニスト」読了。ルービンシュタインの幸福論。みんなを幸福にする音楽。無心に聴く喜びについて。

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世界のピアニスト―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)
Chopin Collection

吉田秀和さんのピアノ音楽エッセイ集「世界のピアニスト」読了。以前も書きましたが(「世界の演奏家」http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1436036.html)、吉田秀和さんの素晴らしい音楽エッセイを読みながら、その中に書かれている音楽を聴くのは至福の時ですね…。本書は音楽の中でも僕が特に大好きなピアノ曲なので、感涙です…。「最も幸福を感じさせるピアニスト」ルービンシュタインのショパンのノクターンを聴きながら、下記を読んでいたときなど涙が出そうになりました…。以下、引用致しますね。

ルビンシュタイン

「幸福のメッセージ」

ルビンシュタインは、あらかじめ用意された、下心のある情緒というようなものとはほとんど無縁である。彼はむしろ、その種の情緒を突破して、生命のリズムに忠実に従うことによって、その充実感を獲得する道をゆくものだと告げているし、それが、私たちに幸福感を満喫させ、私たちの気がつかないうちに微笑みを誘い出す。私は、彼のシューマンやドビュッシーやブラームスに、そういう楽しみと喜びを味わった。

彼の演奏の様式は、古いロマンティックなものでもなければ、新しいものでもない。歴史的にいえば、おそらく第一次世界大戦が無残に断ち切った二十世紀初めの芸術に根ざしたものといえよう。この芸術家の種族は、その後つぎつぎと死んでいったし、生き延びた少数の人々の大半は、もっと苦渋に満ちた道に転進することを強いられた。

だが、ルビンシュタインは黄金の二十年代の姿を、今ももちつづけるのに成功した、ごくまれな存在として残った。とくに鋭く個性的であろうと意識しなかったために、かえってそうなったのかもしれない。そこには、彼のひく、別々の作曲家の音楽たちが、ほとんどいつも同じように完全な音で鳴らされ、とくに明瞭にひきわけられてもいないために、かえって、それぞれが充足しながらも、それぞれの形と姿をもって浮彫りされてくるのと共通の事情があるのかもしれない。(中略)

ルビンシュタインの偉大さは、完全な職人芸に終始しているように見えながら、きくものの心に彼だけしか与えられないものを残してゆく点にある。そうして彼は、それを、ごく自然に音楽からひきだし、私たちに惜しげもなくふりわけてくれる。(中略)

私は、ルビンシュタインというピアノの名人の功績というか特性というかは、きくものを幸福にするということにあると考える。これは大変難しいことだし、そうでなくとも、大変まれな素質ではなかろうか。その理由は、ルビンシュタインという人物が、単にピアノの名人であるだけでなく、おそらく彼が人生の達人であるからなのだ、と私には信じられるのである。(中略)

(ルビンシュタインの言葉に)こういうのがある。

『私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件を設置しないとき、はじめて感じることができるものだ』

ルビンシュタインのピアノは、まさに、こう考え、そういう考えを生み出すような生活をしてきた人の音楽である。私は、この『幸福』という言葉を『音楽』とおきかえたいくらいである。『私は音楽をあるがままに受け入れる…たいがいの人は音楽の条件をまず考えるが、音楽とは何の条件も設定しない時、はじめて感じられるようなものだ』と。

ルビンシュタインの独特な点は、あるいは彼についての世の評価の特徴的な点は、こんなふうにまとめられるのではないか。『なるほど、彼は類稀な素質に恵まれたピアニストである。およそピアノという楽器の本当にピアノらしい特徴の全てを充分に鳴り響かせることができ、しかも、いつ、どんな箇所でも、まったく誤魔化しなしに鳴らせうる人は、彼である。その意味では、この人はピアニストの基準である。』これが一つ。

もう一つは、『しかし、ショパン好きは彼のショパンに何かしら不満を覚える。彼は少しきちんとしすぎていて、たっぷり歌うというより、少し寸がつまるという。ベートーヴェン好きは彼のベートーヴェンに精神性と構築性の不足を難じる。彼のシューマンにしてもリストにしても、またドビュッシーにもラヴェルにも、文句の種が残る。なるほど彼はオール・ラウンドの大家に違いない。だが、要するに、彼でなければならないという音楽に何があるだろうか?』という意見。

こういうことは、しかし、私がほかならない彼から学んだことでいえば、みんなが、それぞれの音楽のそれぞれの条件をまず設定してかかって、音楽をきくからこそ、起こるのである。『そういうものに囚われないできいてみるがよい。そこに、音楽がある。人が思っているのより、もっとたくさんの音楽がある。』

私は、誓っていうが、これを、彼の言葉から学んだのではなくて、彼の演奏から学んだのである。ただ、彼の言葉が、私に、このことをより自覚的、意識的に考えさしてくれたのも、事実である。

ルビンシュタインの演奏をきいていると――ピアノ曲の様式上の文法的な事柄は別として――この人は、ベートーヴェンをひいても、ブラームス、シューマンをひいても、ドビュッシー、ラヴェルをひいても、何もとりわけて、区別してひこうとしないのに気づく。それなのに、音楽はちがってきこえてくる。当たり前のことである。ラヴェルの好きな和音は、ブラームスのそれとは違うし、ドビュッシーの響きはベートーヴェンのそれではない。サン=サーンスはしゃっちょこだちしても、モーツァルトと同じ音楽をかくわけにはゆかなかった。

だが、彼らがみんな違うというのは、なんと素晴らしいことだろう!また、彼らがそれにもかかわらず、みんな音楽だというのは、なんと素晴らしいことだろう!(中略)

(ショパンの曲の)音楽を感じさせ、それも非常に微妙な密度で隈どられ彩られた夢の中に、私たちをひきこんでゆく力。それは恐ろしいようなものである。もちろん、これはショパンの魔力である。しかし、また、これは三和音というものの魅惑の香り、シェーンベルクのいった「古い故郷の香り」に根ざした、ある根源的な匂いである。

だが、そういう根源的なものを、一つの本体的な音の形体に高めつつ――ということは、発見者ショパンをほとんど通り抜けてしまって、ということになりかねないだろう――歌うルビンシュタインは、実にゆったりと、しかし精神を極度に感覚皮相的なものに集中して、ピアノに向かってすわっていた。左手の五本の指でまったく目立たないように漣をたてながら、『人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。』

私は、このささやかな夜想曲をききながら、初日の演奏会やブラームスの協奏曲をきいた後と同じように、またしても幸福だった。どうして、私が、このピアノの達人に感謝しないでいられよう!

私は、ルビンシュタインが何をひいても完全な演奏をするなどと主張はしない。あれこれの作曲家の作品について、不満がある人はそれなりに正しいのだろう。だが、私は彼の演奏に、『音楽』をきく。そうして、そこには悲哀のあとはほとんどないのに気づく。

なぜか?

私は、もうくり返さない。
(吉田秀和「世界のピアニスト」)

ルービンシュタインのショパンのノクターンを聴きながらこのエッセイを読んでいて、しみじみ至福を味わいましたね…。何か、全てを吉田秀和さんが言い尽くしているので、僕から述べることは『ルービンシュタインの演奏から響く暖かくて優しい幸せに満ちた音楽は素晴らしい』、全てはこの言葉に尽きますね…。

『彼はむしろ、その種の情緒を突破して、生命のリズムに忠実に従うことによって、その充実感を獲得する道をゆくものだと告げているし、それが、私たちに幸福感を満喫させ、私たちの気がつかないうちに微笑みを誘い出す』

フルトヴェングラーがロマン派を擁護した音楽エッセイにおいても、同じことが述べられているので、こちらも引用してご紹介致しますね…。

今日では、いっさいの「ロマン派」的な現象は以前にもましてきびしく拒否されています。

が、聴衆をもって音楽界のサロンを満たし、――今日の、またいかなる時代の音楽会をも満たしてきたものは、決して、「新しい」作曲とか、「古い」作曲とかではありません。「古典」的な作曲でも、「ロマン主義」的な作曲でもなく、あるいは、「現代」的作曲でもありません。それはむしろ全人間(全生命の根源)から由来するものであり、それがいかなる派に属しようと、いかなる時代のものであろうと、どうでもよいのであって、いずれにしても問題ではありません。

「全人間」のためには、私たちが今日しばしば味わわされるような一面的な現実の克服だけが必要なのではなく、そこにはまた、錯覚も、夢も、予感もなければなりません。あるいは、あらゆるロマン派の基底をなしているあの予感の充溢、非現実的なもの、超現実的なもの、限りなく躍動するものが必要であるばかりでなく、またそべてこれらに形体と現実とを与える力がなくてはなりません。

真の芸術作品である以上、それがロマン主義一辺倒であるわけがありません。偉大な芸術家の造形力に向かってつきつけられる多くの要求は、ただ単に「ロマン主義」であることによって決して充溢されるものではありません。しかし、偉大な芸術作品である以上、それはまた「ロマン主義」から逸脱するものではありません。なぜなら、およそ芸術なるものは、限りなく沸騰する生命の象徴としてのみ――なんとニーチェは、うまく言ったものでしょう――、はじめて、その意味と価値を持つに至るものだからです。(中略)

現実から逃亡しようとする傾向は、いわゆる(現実逃避的であるとして批判される)ロマン派の人々において見られることははるかに少なく、逆に、彼らの敵であり、およそロマン派と名の付くものでありさえすれば、目の仇にしてこれを引き下げることに飽くことを知らぬという人々の側にこそ多く見受けられます。すなわち、この技術化された時代の一つの出来事の一片が、「メカニズム的なもの」が、生命の全体であると思っている人々、およそ、また愛情、人間的温かみ、充溢、官能、限りない躍動と呼ばれるもの一切に対立して自己を閉ざし、それらを悪辣な仇敵であるかのように恐れる人々こそが――、今日では真の意味において、(それらの人々が批判する)ロマン派と呼ばれるべきなのです。というのは、すなわち、(ロマン主義を含めた)全人間的現実から逃亡する人々、私たちの側からすれば、非創造的な知的錯覚の世界へ逃亡する人々こそ、(現実逃避をする)ロマン派なのです。

「ロマン主義なき世界」――というのは今日の若い一部の人々のかついでいる標語となっていますが、――これはあまりにも一面的であり、今日においてはもう根底的に凌駕された十九世紀のロマン主義がそうであったのとまったく同じ程度に錯覚であり、逃亡であります。いや、この方がむしろ十九世紀よりも危険かも知れません。彼らは現実主義であると自ら名乗って売り込み、そういう態度をもってふるまい、うぬぼれているのです。――しかも、それ自身の中に非創造的なものの核心を抱いています。

この世界に所属する一派(反ロマン主義の現実主義者)の人たちから「ロマン派」と指摘されることは、私にとっては、いつも一種の名誉ある称号をちょうだいしたのと同じことだと思っているのです。
(フルトヴェングラー「音と言葉」)

吉田秀和さんやフルトヴェングラーが述べていること、音楽だけではなく、文学とかアニメとか、あらゆる創造作品についても言える根源的な大事なことですね…。

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