SIMPLE DSシリーズ Vol.48 THE 裁判員 ~1つの真実、6つの答え~

「うみねこのなく頃に」EP8が、非常に後味の悪い最悪な終わり方をして、昨日より、調子が悪いです…。このまま胸に気持ちを貯めていても辛いだけなので、「うみねこがなく頃に」がどうしてこれほど酷く胸を気持ち悪くさせるのか、それについて考えをいくつか述べていきますね…。

ミステリという形態がポーの「モルグ町の殺人」、もっと遡れば、ソポクレスの「エディプス王」からずっと、これまで連綿と築き上げてきた物語形態に秘めたるミステリの倫理、すなわちフェアネス(公正)を、「うみねこのなく頃に」は、確信犯的に蔑ろにして、しかもそれを別の倫理、倫理とも言えないような理由で正当化している。これが、やはり僕にとってこの作品が、酷い出来であると判断する大きな一つになっていると思います。

ミステリの倫理とは、究極的には唯一つ、公正な正義の執行です。これは、作中で犯人が警察に捕まり裁判で裁かれることを意味するのではありません。推理によって作中で起こった謎が正しく解明されること、謎のヴェールの下に隠された真実を何ものにも囚われずに真実として明かすこと、それこそが、最大の公正たる正義の執行なのです。これは真実を明かすために捜査する者の最も基本的なルール、捜査員(探偵や警察、そして物語の謎を推理しようとする読者もここに含めていいと思います)は『捜査に私情を挟んではならない』という、根幹的なルールに繋がっています。これによって、犯罪の被害者達に公正な裁きの基礎を初めて約束できるのです。

推理する探偵が、操作の対象となる相手によって、自分の推理を適当に変えて、都合の良いように起きたことを操作していたら、それはただの悪徳捜査員を描いた痴情小説です。あらゆる人間にとって公正な、実際に起きたこと、唯一つの真実を解明する、それこそが探偵の公正なる正義であり、ミステリの倫理なのです。女神が持つ正義の天秤は、遥か古代ギリシアからずっと、真実の罪を量るためにあるのですから。アリストテレスが正義の第一として述べた正義の秤、「各人は各人のものを正しく受け取らなくてはならない秤」です。良き振る舞いに良き報酬が与えられるように、罪を犯した者は、その罪と等分の罰を受け取らなくてはならない。

ウィキペディア「正義の女神」
正義の女神は、神話に登場する以下の女神である。目隠しをしていない、或いは、目隠しをした女性が剣と天秤を持つ姿として描かれる。

ギリシア神話の女神、テミス
ローマ神話の女神、ユースティティア
この両女神はよく同一視される。

司法・裁判の公正さを表す象徴・シンボルとして、古来より裁判所や法律事務所など、司法関係機関に飾る彫刻や塑像、絵画の題材として扱われてきた。正義の女神像は日本国内にもいくつか存在する。

彼女が手に持つ天秤は正邪を測る「正義」を、剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、法はそれを執行する力と両輪の関係にあることを表している。目隠しは彼女が前に立つ者の姿を見ないことを示し、貧富や権力の有無に関わらず万人に等しく適用されるべきとの「法の下の平等」の法理念を表す。目隠しをした正義の女神像が製作されるようになったのは法の平等の理念が生じた16世紀頃以降であり、19世紀頃より目隠しをした像が主流になる。日本国内では、最高裁判所、中央大学多摩キャンパス内、虎ノ門法曹ビル(東京都港区)などにテミス像が存在する。弁護士バッジにも正義の天秤が描かれている。また、目隠しを取った女神像も多数在り、目隠しを取った状態で全体を見渡し、総てをきちっと見ている状態で、公正な正義の判断を下す女神とされているケースも在る。

英語では一般に固有の名前で呼ばれるよりも、単に Lady Justice (正義の女神)と呼ばれることが多く、固有の名前を用いるときは正義 (Justice) の語源ともなっているユースティティアと名付けられる場合が多い。タロットカードの大アルカナ11番(または8番)「正義」に描かれている剣と天秤を持った女性も、この「正義の女神」を擬人化したものである。

正義って何?
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/entrance/kubo/index.htm
みなさんは正義のイメージをどのように持っているでしょうか?西洋の歴史においては正義のシンボルの多くが、「天秤」であり、それを持つ「女神」でした。今日の日本においても弁護士のバッチには天秤がかたどられています。これは日本の近代司法の思想が西洋から輸入されたものであることに由来するといわれています。つまり、古代のヨーロッパ以来の伝統的正義観は、秤によって比較されるものの均衡、すなわち「平等」こそが正義である、と考えるものでありました。その最も古い原型が古代ギリシアのアリストテレスにみられます。

アリストテレスは、私たち人間を生まれながらに「ポリス的動物」と定義したことで有名ですが、 これは人間が社会のなかでしか生きることができないという事態を述べているだけではなく、 人間が何かを行うことができるのは、つまり可能性を発揮できるのは、 社会への働きかけでのみだ、ということなのです。 社会における法や規則のなかに人間の可能性が発揮できるのです。 したがって、人間は社会といやがおうにでも関わっていかねばならず、 その意味で人間は「ポリス的動物」なのです。 (中略)

「正義」は「他人に対する関係」において発揮されうる「徳」であり、「正義の性向」は「様々な種類の徳のなかでただ一つ『他人のための善』である」といわれるのです。要するに、アリストテレスにおいて、正義とは平等を中核として他人のための善を求める徳だったのです。 このアリストテレスの正義観が、西洋の平等を中心とした伝統的正義観へと引き継がれていったのです。(中略)

現代はある個人にとっての善が、他人と根本的に一致しにくいといえるでしょう。幸福が個々に存在し、善もまた個々に存在する。そんな時代の正義とはどんなものでしょうか? 少なくともだれもが自らの幸福を追求できる「平等」、これは現代の正義に欠かせない一要素であるといえるでしょう。

『目隠しは彼女が前に立つ者の姿を見ないことを示し、貧富や権力の有無に関わらず万人に等しく適用されるべきとの「法の下の平等」の法理念を表す』、この司法の理念を最も古くから物語形態として取り入れてきたのが、ミステリであるとされています。万人に平等な公正な推理、万人に平等な公正な真実は、『貧富や権力の有無に関わらず万人に等しく適用される』のです。これはミステリのフェアネス(公正)と呼ばれています。

多くのミステリが、如何に陰惨な連続殺人事件を描いたものであっても、どこか、後味が悪くないのは、このフェアネスの存在があるから。多くのミステリは公正なる裁きの基礎、正義の原点である、「誰にとっても公正なる真実」が最後に明かされるという仕組みになっているからです。それは、読み手の一切の境遇を忘れさせ、読書の一時、公正なる世界の一端を垣間見させてくれます。この世で最も不公正で耐え難いことの一つは、真実が明かされず、不正が不正のまま、まかり通ってしまうことですから…。ミステリは、そんなこの世の苦痛を一時忘れさせてくれるのです。特に殺人というのは究極の不正です。究極の不正を見過ごさない公正は、世の中の不正から受ける苦痛、不正に遭った者の無念の思いをほんの少しでも和らげてくれるでしょう…。

何の覚悟もないまま突然死んでしまう(殺されてしまう)というのは、とても悔しいことなんだ。やりたいこと、やろうとしていたことの全部が、できなくなっちまう。
(ニンテンドーDSソフト「THE 裁判員」)

このフェアネスの重要性は、ミステリを自ら名乗る作品のほとんどが認識しています。ミステリのフェアネスを人々一人ひとりの責務として、社会参加・司法参加(生ある者の責務)と共に考えているミステリとしてニンテンドーDSのゲーム「THE 裁判員」とか、とても良い作品でした。人間にとって完全に無関係な事件など何もない、人間は、社会の一員として、社会の正義を人々と共に判断して生きてゆく者達なのであるということが、身に伝わってくる良作ミステリゲーム、お勧めの作品です。また、例え不正を不正のまま作中で見過ごすようなミステリであっても、それを不正として提示する、すなわち謎を明かすことで、フェアネスを示しているのです。フェアネスがあるからこそ、それが不正が不正のまま終わる話であっても、その不正が不正だと分かることができる。

しかし、「うみねこのなく頃に」、特に今回のEP8は、こういったフェアネスを、確信犯的に踏みにじっているとしか思えません。今回のEP8では、真実ではなく、虚偽の幻想(魔法)に取り込まれて真実から目を背けることを、唯一の正解たるトゥルーエンド(魔法エンド)とし、真実を明かすことを作中で徹底的に罵倒し蔑んだ挙句、真実は明かさない。例え、真実を望んでも、真実を明かさない(手品エンド)。これは、僕のような、ミステリをこれまでずっと愛してきた読み手からすれば、驚くべきもの、ミステリを根幹から否定しているとしか思えないものです。うみねこ作中では、「生死の関わった事件を事件に無関係な人々が推理推論すべきでない」と頻繁に述べ、作中もその流れで進みますが、僕には全く納得できません。僕は、この意見には絶対にNoです。社会に起きた事件において、公正な正義は、社会の各人一人一人と共にあるのです。法の理念、司法の理念、裁判の理念を見れば分かるように、誰かの独裁ではなく、人々に開かれた民主的合議体として事件を討論することで、公正な正義は初めて有形の力の形となる。社会の事件には、無関係などという言葉の入る余地はありません。縁遠い事件であっても、何かしら、社会の一員として人は常に関わり、そして判断を求められている。

不正の中でも究極の不正たる殺人事件は、特殊な事件、死した被害者は既に意志を主張できない事件なのです。その時、被害者の求める告訴権は、国民全てに委ねられているのです。陪審員制度や日本でも近年始まった裁判員制度を考えれば、分かりやすいと思います。抽象的に言えば、死したものから生命あるものに真実の解明、そして真実に基づく裁きが委ねられていると言ってもいい。死した者の無念を汲み取ること、それは、命あるもの皆が背負う責務です。それは虚偽の幻想で誤魔化していいようなものでは決してないし、「事件に無関係な人々」などと言って、命あるものの責務を投げ捨てていいものでも決してない。

「うみねこのなく頃に」の中の殺人事件、加害者(犯人)もいれば被害者もいるわけです。被害者のことを考えるとき、被害者達を虚偽の幻想の中に押し込め、「生死の関わった事件を事件に無関係な人々が推理すべきでない」などという説得力のない理由で何も明かさずに終わりにして言い訳がない。これは、あまりにも、フェアネスを蔑ろにした行いであり、そしてフェアネスに代わり得るものも何も示していない、虚無的で、投げやりで、いい加減な行いです。

このような行いで幕を締めた作品を評価することは、僕には全くできません。フェアネスを蔑ろにし、あらゆる命の尊厳を蔑ろにし、しかもそのことを非常にみっともない言い訳(生死の関わった事件を事件に無関係な人々が推理すべきでない)で言いつくろっている、酷い作品であるとしか言いようがありません。うみねこのことを考えるだけで腹部に痛みが走ります。考えずにはいられないので、このように文章を綴っており、怒りと悔しさと悲しみで文章を書かせるということにおいては、一級の作品なのかも知れませんが、その怒りも悔しさも悲しみも全くの苦痛でしかないです…。

「うみねこのなく頃に」、これはあまりにもフェアネスを蔑ろにした作品であり、その結果、命を絶たれなくてはならなかった、殺人という究極の不正の被害者達の苦痛、悔しさ、無念といったものは全てスポイルされている、そのことは、例え、この作品を評価する人間であっても、忘れてはならないことだと思います。

参考作品(amazon)
SIMPLE DSシリーズ Vol.48 THE 裁判員 ~1つの真実、6つの答え~
SIMPLE DSシリーズ Vol.48 THE 裁判員 ~1つの真実、6つの答え~

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
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ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)
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