2010年12月22日 08:33

アニメ「侵略!イカ娘」最終回…。うう…。よい作品が終わってしまうのは、悲しいことですね…。東京都表現規制について。

侵略!イカ娘
侵略!イカ娘BD・DVD
マンガ狂につける薬 二天一流篇

アニメ「侵略!イカ娘」最終回視聴…。締めに相応しい良い最終回でしたが…、イカ娘がこれで終わってしまったと思うと、寂寥感で一杯です…。本当によい作品でした。原作は今後も続く訳でして、再び、いつか第二期が始まって欲しいと思います…。

本では呉智英さんの漫画評論「マンガ狂につける薬 二天一流編」読了。いつも通りの読み応えのある面白い漫画評論書でした。「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」について論じた評論が、東京都の先日可決された表現規制の問題とリンクするので、引用してご紹介いたしますね。

「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」濃くて熱い最凶の物語

新井秀樹「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」が売れ行き好調だという。一冊千百四十四円で全五巻。重量級の長編ながら、第一巻は発売二ヶ月で五刷である。信じられない思いだ。雑誌連載中、私を含む何人かの評論家が絶賛したものの、すべての漫画賞から無視された。もっとも、これだけ過激かつ荒唐無稽な物語であれば、それも当然という気がしないでもない。しかし、そんな作品が新たな読者を獲得していることは心強い。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」は「ヤングサンデー」に1997年から2001年まで連載された。作者が構想を練り取材を始めたのがオウム真理教事件直後、無差別テロが続く危険のある頃だった。そして、連載終了直後、イスラム過激派による九・一一テロ事件が起きた。良識家の誰もがこの作品を敬遠したくなるような状況であった。しかし、「真説」と銘打ち、数十ページの加筆の上よみがえった。(中略)

幸か不幸か、「ザ・ワールド・イズ・マイン」は連載中は有害漫画指定にならなかった。小学館版の旧単行本も成人指定にはならなかった。おそらく、テーマが難解だったので、社会に悪影響を与えることがなかったからだろう。しかし、もしこういった作品が国会や地方議会で取り上げられたら、どうだろう。何らかの規制が加えられる可能性がある。漫画は、映画は、小説は、既に何度もこういう規制を受けている。そんな時、どう考え、どう対処したらいいのか。

ジャーナリズムに登場する良識家は、必ず、表現の自由、思想・芸術の自由、それらを含む人権や民主主義の重要性を強調する。まことに愚かなことだ。そんなものは単なる法律論、制度論にすぎないではないか。法律が変わり政治制度が変わったら、何の意味もなくなる。法廷闘争なら、法律の条文を示して闘うのも当然だが、それは本質的な議論ではない。問われるべきは、文学や漫画などの芸術・文化と社会との関係そのものなのである。

表現の自由、芸術の自由を論ずる時、人権や民主主義に収斂させて考える良識家達が決して言及引用しない思想家がいる。いずれも、民主主義だの人権思想だの夢にも考えたことのない前近代の思想家たちである。

「大和心」を思想的キーワードにし、戦前は最も重要な日本人の一人としてあがめられた本居宣長もそうした思想家である。

その歌論「排蘆小船」を、冒頭部分だけでいいから読んでみよう。この書の名は、背丈ほどの葦が繁る水面を小船が排け進むように、自分が和歌論、芸術論の水先案内人になる、という意気込みでつけられた。

弟子が先生に問う。「 歌[和歌・芸術]は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず」と。

これに対して、師が答える。「非也[違う]。歌の本体、政治をたすくるためにもあらず。身をおさむる為[人格修養の為]にもあらず、ただ心に思ふことをいふより外なし。其内に[は]政のたすけとなる歌もあるべし。身のいましめとなる歌もあるべし。又国家の害ともなるべし。身のわざわいはいともなるべし」

芸術は、社会を良くしたり、人格を立派にしたりするためのものではない。結果的にそうなるものもある。しかし、「国家の害」となるものも、「身のわざわい」となるものもある、ということだ。

21世紀の現在、これを越える芸術論はまだ出ていない。
(呉智英「マンガ狂につける薬 二天一流編」)

ザ・ワールド・イズ・マインは「国家の害」となるものも、「身のわざわい」となるものも、そういった要素を孕んだ傑作で、それはそういった要素も評価する芸術という尺度で評価しなければならない傑作であるということですね…。これはこの通りだと思います。「ザ・ワールド・イズ・マイン」僕も読みましたが(小学館版で読んだので加筆分は読んでないです)、この作品は間違いなく傑作であると共に、これを「社会に有用」という論理で肯定するのは不可能だと思いました。芸術の尺度において、傑作であると…。こういった尺度から創作は考えないと、『社会に有害な漫画は全て規制せよ、人民の為に芸術は存在する』という20世紀に猛威を振るった悪夢が再び蘇ってしまう。スターリニズムによって弾圧されたグルジアの作曲家ギヤ・カンチェリ(創作活動のため、西ヨーロッパに移住)が、排蘆小船を彷彿とさせること、上記と本質的に同じことを、作曲家としての作曲活動と、当局からの弾圧からの経験として述べていますね…。

歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず。この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。

答曰、非也。歌の本体、政治をたすくるためにもあらず。身をおさむる為にもあらず。ただ心に思ふ事をいふより外なし。其内に政のたすけとなる歌もあるべし。身のいましめとなる歌もあるべし。又国家の害ともなるべし。身のわざわいはいともなるべし。みな其人の心により出来る歌によるべし。
(本居宣長「排蘆小船」)

ギヤ・カンチェリインタビュー。
「ギヤ・カンチェリ 交響曲第4番・交響曲第5番」ライナーノーツより

ギヤ・カンチェリ
「社会主義を標榜しようとした国には、「芸術は人民のものである」という恐ろしいクリシェがあります。それはレーニンの言葉です。

もし、「人民」について考えながら作曲をするのなら、その人はそもそも作曲などしない方がいい。人々はそんな音楽を必要としないでしょう。作曲家は自分達のために、あるいは実際には存在しない抽象的な人のために作曲するのだと思います。その瞬間、作曲家は自分の音楽を大衆がどう受けとめるかを考えません。

しかし同時に、おそらく、仕事をしているプロセスにおいてではなく、仕事が終わった時、私は一つの望みを持っています。私にとって、自分の音楽がどう受けとめられるかは問題ではありません。重要なのは、それがどんな風に聴かれるか、ホールの中にはどの程度沈黙が存在しているかということです。沈黙には沢山の種類があります。形式ばった沈黙、知的な沈黙、「なすがままにしておこう」としたり、注目と期待を伴った沈黙もあります。私は最後に述べた沈黙に向かって、努力しています。そして、演奏が終わったら、あとは何も問題ではありません。人々がその曲を好もうと好むまいと、あるいは批評家が何を書こうと。(中略)」

ギヤ・カンチェリ
「(共産圏の統制の中で育ち、創作活動は当局の検閲を受け弾圧された)私が全てのことにおいて、つまり、あのイデオロギーの全て、私達の生活の全て、そして身の回りのもの全てにおいて、嘘とともに存在し、生きてきた社会で育てられたことを思い出してください。そして、これらの多くは、いまだに続いています(このインタビューはカンチェリが西ヨーロッパに脱出前のグルジアで行われた)。

この社会に生き、こうした嘘を感じている全ての人々が、彼自身のために、何らかの世界を創造するよう努力しています。その世界で、彼はそうした嘘に反対して、大声で話すことができ、真実や秩序、良識、誠実さを尽くすのです。

この問題はどこにでも存在しますが、ここ、つまり、全体主義的なシステムがある特定のイデオロギーから作られ、ほかの種類の考えが存在することを許されない国々では、特に強く存在してきましたし、現に今も存在しています。(中略)」

インタビュアー
「あなたは、自らの生活を支配している嘘を感じ、明らかにしようとする人々を、自分の音楽が手助けしていると思いますか?」

ギヤ・カンチェリ
「そうでありたいと思っています。(中略)私は、芸術や美が世界を救うことができるなどという伝説は信じませんが、おそらく、美は、人を悪から善にするのではなく、ときおり、善をより良きものにすることができます。(中略)

(創作活動は)人々を(体制の)従順な僕にすることもあれば、彼らの中に抵抗する望みをかきたてることもあります。私は後者のカテゴリーに属しています。そしておそらく、私の音楽の中に、人々はそれを感じることができます。(中略)シューベルトやモーツァルト、ベートーヴェンの音楽からも同じようなコントラストが聴こえて来ます。(中略)」

インタビュアー
「政治的環境の変化は、どのようにあなたの作品に影響を与えてきましたか?」

ギヤ・カンチェリ
「私達の会話の始めに、体制は体制の中で生きている人間を助けることはないが、影響を与えると言いました。それと同時に、真の芸術はそれを取り囲んでいる現世の実在物よりも遥かに崇高なものであると私は考えてきました。人はこの世に生きていますが、特に厳しい時代を過ごしている時、彼は天上に目を向けます。そして、もしある高みへと昇って行き、そこから世界、つまり地上で起きていることを眺めることができたら、彼は特定の社会に存在しているリアリティより遥かに高いところに立つことができるでしょう。(中略)

今も存在している体制が、音楽の中で表現される強い抵抗感を高めることを否定しません。私はショスタコーヴィチの例を挙げました。現在ではアリフレド・シュトニケの例もあります。しかし、もし、これら抵抗が全く直接的なものだけだとしたら、それは一時的な意味しか持ちえません。他方、もし、抵抗が、今日ここに存在している悪魔だけに対するのではなく、常に存在してきた、そしてこれからも不幸なことに、いつでも存在する悪魔に向けられたものであるならば、その意味は遥かに普遍的なものになるでしょう」

インタビュアー
「そうすると、あなたの音楽は抵抗の音楽ですか?」

ギヤ・カンチェリ
「まぎれもなく、そうです。それ以外ではありえません。もし、そうではないと言ったら、私は嘘をついているのです。

私は自分の音楽の中で、ときどき、兵士のブーツの下に落ち、消えてしまう、小さな花を表現しようと試みてきました。これはいつでも、そうしたブーツへの抵抗です。

幸運なことに、どれほどブーツが大きくて恐ろしくても、花はいつでも育ってゆくので、生活も人々も(創作活動によって)描かれるのです。それは素晴らしいことです。

しかし、この時代、私達の目の前に、そうした花々が育ちやすい政府もあれば、そうではない政府も存在しているというのは、悲劇です」

「芸術は人民のものである」というスローガンを掲げる当局から表現規制を受け弾圧されていた創作者カンチェリの言葉は、重みがありますね…。今回、東京都も旧共産圏のように表現規制の弾圧を行いだした訳ですが、東京都に出版社は集中していますから、今回の可決により、今後、東京都で厳しい表現規制・実質上の検閲が行われることは、日本全体で表現規制・検閲が行われるのと同じ意味を持ちます。「ザ・ワールド・イズ・マイン」のような創作は、残念ながら、日本で描かれることは今後なくなってゆくでしょう…。東京都都議会で表現弾圧に反対しているのは少数野党の共産党と生活者ネットワークしかなく、与党の民主党と最大野党の自民党が表現弾圧の推進に乗り気な以上、今後も弾圧が進むことが予想され、胸の内が暗くなって、辛いですね…。生活苦の上、楽しみまで奪われてゆく社会です…。

みな其人の心により出来る歌によるべし。

この時代、私達の目の前に、そうした花々が育ちやすい政府もあれば、そうではない政府も存在しているというのは、悲劇です。

参考作品(amazon)
マンガ狂につける薬 二天一流篇
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (2)巻 (ビームコミックス)
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 3巻 (ビームコミックス)
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 4巻 (ビームコミックス)
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻 (ビームコミックス)
カンチェリ:交響曲 第2番「賛歌」/同第7番「エピローグ」
排蘆小船・石上私淑言――宣長「物のあはれ」歌論 (岩波文庫)
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