2010年06月08日 03:57

Angel Beats! について、良い批評をされているブログをご紹介致します。ネオエクスデス・音無。

Little Braver
Keep The Beats!

このくらいの人並みの幸せが与えられればそれでもう充分でしょ?さあ笑って行こう?っていう主人公。何様か。僕があの世界に行ったら不死身なのをいいことに永遠に漫画描きつづけるぞ
(今井哲也)

Angel Beats! 第10話について、良い批評をされているブログをご紹介致しますね。感心致しました。この通りですね…。

北へ。の国から「Angel Beats! 第10話感想」
http://yukikaze.otaden.jp/e108292.html
「結婚できたら死んでも良い」と言うのは、慣用句や自虐としてならともかく、事実にするには酷すぎます。そもそも、ユイやあるいは現実の重度障害者は、結婚ができれば良いのでしょうか?至る過程はともかくとして(それは、ユイが既に得ている豊かな人間関係で代替されます)「死が二人を分かつまで」と言う濃密な(ま、多くの場合悲惨なドロップアウトに終わるわけですが!)関係性が「続くこと」こそ、重要な要素のはずです。

また、こう言う展開を見せられると、この学校をもした死後世界自体が、幸せな夢を見せて成仏させる、悪質な洗脳装置にしか見えなくなってきます。

これって、正に現実の宗教がやってる事なんですよね。現実の理不尽さも、社会の矛盾も、怒るべき悪でも戦うべき対象でもなく、死後の幻想で代替される物として受けいれるように迫る。神をぶん殴りたいという、SSSの身を切るような怒り・悲しみに対置される物がこれでは、悪質な宗教作品にしか見えません。(中略)

つまるところ、望んでいた生活を手に入れて楽しく過ごしていた少女を、一時の夢と引き替えにあの世へ叩き込んだわけです。
これが幸せ?主人公が目指すべき道?と言うか、この世界の目的?そんな物、正にクソくらえでしょう。「いい話」っぽく描く演出が、度し難い傲慢さを醸し出しています。

はい、結論出ました。「ふざけるな」。この後の展開が大きく動かない限り、評価は変わらないと思います。

全く同感ですね…。Angel Beats! はあまりにも全ての出来(表層的なそれぞれのシーンや登場人物描写から、それらの繋がりや、根幹的な物語全体に至るまでの全て)が壊滅的にダメすぎるので、真面目に考察する気がどんどん奪われてゆく感じの作品なのですが、そんなAngel Beats!に対し、上記リンク先さんは真っ向から立ち上がって、力の入った正道の考察を行っていて、アニメの考察好きとして嬉しいなあ。

これまでのネットに出回るAngel Beats!の考察の多くは、変に斜に構えて、メタ外部的な要因(売れるためのマーケット分析とか音楽プロモーションとか)を持ち込むことでAngel Beats!を無理に褒め称えるようなものが多く、物語自体は完全に軽視しているものばかり…。それらは読んでいて須らくつまらなかったので(Angel Beats!は売れているから素晴らしいなんて意見を見せられても…がっくりするとしか)、こういう、きちんと物語論の立場から考察している文章を読むと、ほんと嬉しいなあと思いますね。

前回、二次創作(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1188517.html)を書いた気持ちと繋がっていますが、SSS団・ゆりの行動もかなり支離滅裂ですが、それでもまだ、彼女達の行動は見ていて納得できるものなんですよね。彼女達は存在を消されたくないから戦っている。それは、生物の自己保存の根幹的本能、『死にたくない、消えたくない』という、根源的な分かりやすさを持った、当たり前の行動です。

それに比べて、天使・音無の行動原理は意味が分かりません。なぜ、成仏(世界から消滅すること)が、無条件に正しい、自分以外の他者にとっても正しいことなどと考えているのか、全く理解不能です…。

Angel Beats!の世界、エンジェルプレイヤーの謎とか、学園の外はどうなっているのかとか、身体や物品が再生するメカニズムはどうなっているのかとか、世界の歴史はどうなっているのか、物理法則はどうなっているのか、etcetc、解明すべき謎がまだまだ沢山ある世界なんですから、そういう謎を解明してゆけば、世界の謎を解き明かすことができるかも知れない。もしかしたらゆりの言うとおり世界を管理する神がいて、魔界塔士サガみたいに、神を倒すことで、閉ざされた学園世界から脱出できるかもしれない。

ありとあらゆる可能性を探求しつくして、世界を探求して何千年、何万年もたって、どうしてもこの世界から逃れられないという諦めが出てきてから、仕方なく成仏(消滅)を選んだって遅くはないでしょう。なんで、色々な選択がある中から、『自分を消滅させる』などという、性急で取り返しのつかない選択を、『皆にとって正しい選択』と天使や音無が考えているのか、僕にはさっぱり分からないです…。SSS団・ゆりの方がずっとまっとうな選択(自分達は消えることを拒否して、生きのびるという選択、この選択は少なくとも他者の可能性を消すことはない)をしていると思いますよ。

少なくとも、僕があの世界に送り込まれたら、どういう世界なのか、徹底的に出来得る限り調べて、このヘンテコリンな閉鎖学園世界の謎を解き明かそうとすると思います。SSS団に入るかどうかは別として、消滅することを拒否するという点で彼らとは協力関係が結べると思いますし、音無や天使のように、他人を勝手に消滅させようとしてくる奴らは、生存すること(存在すること)に対する恐るべき脅威でしょう。

Angel Beats!、上記の点が気になって、見ていても物語に全然納得できないんですよね。音無や天使の考えている「世界から自己が消え去ることこそ救いである」って、君らはどこのネオ・エクスデスだよ、みたいな。

「わたしは ネオエクスデス・音無
すべての記憶 すべてのそんざい すべての次元を消し
そして わたしも消えよう 永遠に!!」

って感じですよね…。ネオエクスデス・音無に消滅させられて感動するとか、有り得ないとしか思えない…。一体この話のどこの何が感動なのか、さっぱり分からないです…。

FOOLISH !!「インスタントな感性」
http://ameblo.jp/mai472/entry-10555647738.html
もうひとつ、少なからずこの作品を好きな層が、記号的に感動できるということも不安です。
これは個人の感性なので否定してはいけないと思うのですが、(物語の前後を切り離して)パブロフの犬のように感動して涙を流せるということはなんだか虚しいと思います。
そんなものがまかり通ってしまったら、まっとうに丁寧な作品作りをしている人たちがやる気をなくしてしまうんじゃないかと。
感動って言うのはもっと違うんじゃないかなと。

上記のリンク先さんが書いている、単独での記号的感動シーンとしてすら、ネオエクスデス・音無の手によって強制成仏(消滅)させられるという物語の流れから、全く感動できないものになっていると僕は思うんですね…。

この辺が見ていて本当に謎なんですよね…。本作は感動とは全く正反対の方向に物語が展開しているため、単独での感動シーンとして見ることのできる個別のシーンすらも台無しになってしまっていると言う…。どうしてこういう作りにしているのか、本当に、謎であると思います。

Angel Beats! 第10話を見て、感動したとか泣いたとか言っている視聴者さんは、一体どのようなところに感動したのか、知りたいなと思いますね…。この作品の一体どこが視聴者を感動させるのか、純粋に知りたいですね…。

Angel Beats! は、視聴者からの感動や共感に対して極めて否定的(おそらくは製作側の意識的に否定的)に作られている作品でありながら、宣伝的には感動作品ということで売り出している、そしてその売り出しが成功しているという、極めて謎めいている作品であると言えると、僕は思いますね…。

まあ、僕のこの作品を見ている視線は、自分があの世界に行ったらどう生きるだろうか、という視線なので(僕の見方は他のアニメもそうですね)、そこら辺で、登場人物達の死生観が僕とあまりに違うので共感できないというのはありますね。僕だったら、『この謎めいた世界の謎を解き明かすまで消えることはできない!』と思うでしょうから…。まあ、ここら辺はSF者(SFファン)のサガと言えるかも…。SF好き(SF的に考える人々)は、謎めいた異世界に送られたりしたら、その世界の謎を何としても解き明かしたいと思うところが大きいですから…。SFって「世界の謎を論理的に解き明かす物語」ですからね…。

ただ、別にSFが好きじゃなくても、普通、いくら異世界に送られたからといって、そんな簡単に自分の存在を消す(自己を消滅させる)なんて行為を選んじゃう人はそうそういないと思います。音無・天使が行っている、ちゃんと存在している他人を勝手に消滅させてまわるなんて、それこそ邪悪の極みな行動だと思いますね…。

もし、Angel Beats! の世界に人々が送られたら、多くの人々は、謎めいた閉鎖学園世界の謎を解き明かすことを目指すか(SFな人々)、閉鎖世界から脱出することを目指すか(ハリウッド映画主人公な人々)、その世界で消滅を選ばずに頑張って生きること(良い意味で普通な人々)を選ぶのではないでしょうか。自己を消滅させる選択を選ぶのが正しい、それが感動だ!と言われて、納得できる人は少ないかと…。

ちょっと硬い話をすると、Angel Beats! の世界は欲望が満たされることで消滅するということですが、生命体(人間に限らず、あらゆる生命)において、欲望(自己保存・自己拡大の衝動、自己に対する欠如感覚、明日に対する希望)というものは完全に満たされることなく常に欠如している(それによって、生命体は自己を保存し拡大させようとする)ものであって、衝撃的な変わった体験(麻薬でトリップするみたいな体験)をすることなく普通に生きている限り、ずっとあの世界で消滅せずに生きられるように思いますね…。

生命体の中でも人間の抱いている欠如感というものは、物凄く強いものです。人間は凄まじく欲望(=欠如感覚)が強く、ゆえにこそ欲望=明日への希望の力によって文明を大きくしてきたのですから。

あの世界で人々が成仏せずに、ずっと生きていれば、人口も増え(誰も消えなければ人口は自然に増加する)、科学技術も発展するでしょうし、世界の謎も解き明かされてゆくでしょう。あの世界では無限に技術研究できる時間があるのですから、文明が発達すれば、閉鎖空間を打ち破って、あの世界からの脱出だってできるかもしれない。

それなのに、なぜ、音無や天使はそういう道を諦めてしまうのか。彼らが何を考えているのか、わからないですね…。なんで、未知なる明日の世界に賭けようとしないのか。未来の希望と可能性をゼロにする、消滅の方を選んでしまうのか…。しかも、自分が消滅するんじゃなくて、勝手に他人を消滅させようとするなんて…。世界観自体は結構ユニークで面白いのに、主人公達の行動で、それらのよさは台無しです…。

余談ですが、僕なら、Angel Beats! 世界設定を、謎の学園異世界に送り込まれた人々が、「異世界の謎を解き明かそうとする研究派」「異世界からの脱出を目指す脱出派」「異世界で普通に生きることを目指す適応派」の三派に分かれており、そこに人々を消滅させるテログループ「成仏派」がテロ攻撃を仕掛けているという世界設定にするかな…。閑話休題。

最後に、アフタヌーンの漫画家、今井哲也さんのツイッターを引用致しますね。

今井哲也さん
http://twitter.com/bobyuka
AB! 世界の仕組みに対する根本的な疑問。不幸な死に方をしたからその人には何かしら思い残しがある→その一つを叶えることができれば、その人は人生に満足して、救われた思いで完全な死を受け入れることができる。というのは、人の一生に対してちょっと上から目線すぎやしないだろうか

そう思うのは多分、登場人物が全員思春期の少年少女だからだと思う。彼らが死んだ時点で考えていた「思い残し」なんて、たとえば彼らがそのあと何十年か長生きしたとしたら、そこで得ただろうものからすればおそらく何十分の一なのだ。でも送る側である主人公も高校生だからそこまでは分からない。

たとえば食べ物がろくに食べられなくて飢え死にした魂は、たらふくご馳走を食べさせてあげれば救済されるのか。確かにされる。けど、その人がもし普通に毎日ごはんを食べられていたら、その人が人生に対して抱いた「思い残し」の地平線自体が変わってくる。

登場人物が皆「不幸な死にかたをした」というのが前提なのがだから卑怯だ。あなたは生前何もできなかったんだから、このくらいの人並みの幸せが与えられればそれでもう充分でしょ?さあ笑って行こう?っていう主人公。何様か。僕があの世界に行ったら不死身なのをいいことに永遠に漫画描きつづけるぞ

成仏(消滅)したら、消滅せず生きていれば世界で為せたであろう可能性が全て消えてしまうのだ、ということは、もっと考えられていいと思いますね…。

参考作品(amazon)
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