2010年05月23日 13:15
まおゆうとカオス理論。どき魔女ぷらすの物語。人間の心を信じることは、未来を信じること。
どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
前回自分で自作ゲームを作って、なんか、僕がまおゆうのことを、非常に耐えがたく感じる理由が分かってきたように思います。自分で物語を作ると、自分の気持ちが良くわかりますね…。
まおゆうの物語は、凄く色んな経済的な理由を付けて、困っている人を助けなかったり、虐げられている人を見捨てたりすることを、ひたすら正当化しています。憐憫の情を否定して、冷酷無比さを「冷酷無比さは経済的有用性があり必要だ」と、物語の流れとして強制する物語なんですね。それが、僕にとっては、不自然に感情を抑圧される感じで、気分が悪くて堪らないんだなあと感じました…。
上記が分かりやすいですが、まおゆうの物語は、何もかもを、経済的に裁いて、経済的に意味がないとみなされる行為や経済的に意味がないとみなされる人々を徹底的に排除することを『経済的に正しい行いであり社会を繁栄させる正しい行い』としているんですね。
『奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ』、この魔王の発言の考え方が、この作品全編を通してのメインモティーフだと思います。合理性の為に非人道的なことは許される、個々の可哀想な様子に胸を痛めるのは、合理的ではない振る舞いで許されないと、まおゆうは述べる…『「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです』。経済合理主義に基いて、思いやり、優しさ、相手の気持ちになって思うことなどの、人間の大切な感情は、下記のように、徹底的にただひたすら否定されている…。
人間には経済的合理性では計れない、自然な感情としての憐憫の情けがありますし、それが人間を人間ならしめているもの、予想できないカオスである未来に希望を繋いでいるものだと、僕は思います。誰も未来のことはわからない。
たとえば、ニンテンドーDSの「どきどき魔女神判」(話を追加したリメイク版の「どき魔女ぷらす」)では、凄く貧乏な魔法使いの赤井まほは、子猫をこっそり体育倉庫で飼っている(餌をあげている)のですね。
でも、貧乏な彼女には、お金が全然なくて、猫にいつまで餌をあげれるかは分からない。でも、彼女は自分の食費を削っても(彼女の食事はサバ缶なので、猫と兼用)、餌をあげて飼っている。主人公のアクジがそんな彼女の貧乏暮らしを助けて、猫も助かった。僕は、プレイしていて、ああ、いい話だなあと心から思いました。
まほが、経済的な見通しを考えて最初から諦めていたら、子猫は助からなかった。まほが後先考えず、猫たんを助けたことが、まほにも、猫にも、ベストな結果をもたらした。経済的な未来予想なんて、当たるかどうか誰にも分からない。
ただ純粋に、後先考えず、助けたいと思った人間の自然な気持ち。それを経済合理性の名の元に抑圧し、人々を見捨てる冷酷さの肯定するまおゆうの思想、それは、無数の歴史的悲劇を齎してきた、誤った思想であるとしか思えないです。
後先考えずに、誰かを助けたいと思う気持ち、そういった感情は、まおゆうの中においては、上記引用先の言葉のように、「経済的合理性」とかなんとかいう、感情とは違う、数字の論理で否定されている。その数字の論理が、まるで絶対に正しき世界の救世主であるように描かれている。でも、その経済性が正しいと、一体誰が分かるのですか?未来のことは、それこそ理論的に誰にも分からないということが明らかになっているのです(カオス理論、複雑系)。人間は、今できることをやるだけです。未来の為に、今の残酷さを肯定することほど卑怯な振る舞いはありません。
しかし、まおゆうにおいては全てが合理性の思想、経済的未来予測なるもので支配され、人間の非合理性、感情は、徹底的に否定されています。経済合理性に基く予測は、まおゆうの物語において、金科玉条の如く正しいものとして扱われ、それによって戦争を始めることやその継続すら肯定される。
まおゆうの物語世界における合理性と経済学は絶対ですが、実際の世界では合理性に基く経済学・経済予測はしばしば外れます。なぜなら、世界とはあまりに複雑で多様であり、限界ある人間には決して計れない、絶対的に予測不可能な動きを日々しているから。誰も未来を見通すことはできないのです。『ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こす』(エドワード・ローレンツ。カオス理論)。
どき魔女の物語で、貧乏なまほが、主人公のアクジと偶然に知り合い、猫と一緒に救われたような、誰にも予想できない偶発的な出来事が、世界には無数に起きているのです。
僕は、人間が人間を悲劇から救い得ることが可能な、人間に根ざした自然な感情としての憐憫の情は、とてもとても大切なものだと思います。まおゆうの世界では、合理性・経済学の万能性を謳い、自然な感情はその下に置かれています。まおゆうの世界では、合理性と経済学を掲げる人間(魔族)自身が力ある神となっている。それは、とても危険な考え方だと思います。『客観的に判断できない神でない人間が、勝手に力の方法を正義だと言っていることじゃないか!』(石の花)
まおゆうみたいな物語が出ることを否定はしません。表現の自由、出版の自由は大切です。だけど、これが素晴らしい物語として大勢の人々に支持を集めているということには、僕は恐ろしさを感じます…。
まおゆうを『素晴らしい偉大な物語だ!!』と讃えている大勢の人々は、全体的な経済的合理性の為に、『どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。』『「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、(まおゆうは)はっきり示しているんです。』という、まおゆうの思想を肯定しているんでしょうか…。そこには、「T4作戦」のような「合理性を大義名分にした非人道的行為」を肯定する気持ちがないでしょうか…。
もしそういった気持ちがあるのだとしたら、まおゆうが支持されるということに、深く絶望の気持ちです…。恐怖で心が真っ暗になります…。
全てが経済的な多寡で判断される社会では、経済的な価値のないとみなされたもの、病者や無業者は徹底的に弾圧されて、滅ぼされて行くでしょう…。まおゆうが讃える、そういった経済合理支配社会は、心の痛む、恐ろしい社会だと僕は思います。経済合理性を非合理に崇めてそれだけに生きるのならば、人間は人間と言えるのでしょうか。
思いやりを、愛を、優しさを持つことができる人間の心というものを、経済予測による未来などよりも、もっと信じるべきだと、僕は思います。もっと、人間の心を信じること。それは未来を信じること。どき魔女の赤井まほのように、後先考えない思いやりの感情、そういった優しさ、思いやり、生命に対する慈しみが、世界を少しずつ、僅かずつでも、良くしていくものだと思います。
参考作品(amazon)
どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!2(Duo)(通常版)(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判! (2) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 1 (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 2 (チャンピオンREDコミックス)
哲学的な何か、あと科学とか
史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)
カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)
世界の半分が飢えるのはなぜ?―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)
朗読者 (新潮文庫)
石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)
石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)
石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)
石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)
石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)
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どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
前回自分で自作ゲームを作って、なんか、僕がまおゆうのことを、非常に耐えがたく感じる理由が分かってきたように思います。自分で物語を作ると、自分の気持ちが良くわかりますね…。
まおゆうの物語は、凄く色んな経済的な理由を付けて、困っている人を助けなかったり、虐げられている人を見捨てたりすることを、ひたすら正当化しています。憐憫の情を否定して、冷酷無比さを「冷酷無比さは経済的有用性があり必要だ」と、物語の流れとして強制する物語なんですね。それが、僕にとっては、不自然に感情を抑圧される感じで、気分が悪くて堪らないんだなあと感じました…。
魔王「奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ」
(まおゆう)
メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/
物語は、農奴で悲惨な暮らしをしている二人の少女が、魔王と勇者の住もうとしている屋敷に逃げだしてくるところから始まります。
農奴の奴隷状態から逃げ出してきた二人のかわいそうな少女に、魔王の親友であるメイド長は「こんな虫けら、早く村に突き出しましょう!」と。
これは、正しい態度です。それは、2点から。一つは、魔王と勇者は、こうした悲惨なことがなくなるように「マクロ」のために立ち上がったわけであって、個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。
またいきなり「虫けら!」と吐き捨てるのは、強い倫理的な怒りがメイド長の中にはあります。どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、はっきり示しているんです。
上記が分かりやすいですが、まおゆうの物語は、何もかもを、経済的に裁いて、経済的に意味がないとみなされる行為や経済的に意味がないとみなされる人々を徹底的に排除することを『経済的に正しい行いであり社会を繁栄させる正しい行い』としているんですね。
『奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ』、この魔王の発言の考え方が、この作品全編を通してのメインモティーフだと思います。合理性の為に非人道的なことは許される、個々の可哀想な様子に胸を痛めるのは、合理的ではない振る舞いで許されないと、まおゆうは述べる…『「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです』。経済合理主義に基いて、思いやり、優しさ、相手の気持ちになって思うことなどの、人間の大切な感情は、下記のように、徹底的にただひたすら否定されている…。
個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。
人間には経済的合理性では計れない、自然な感情としての憐憫の情けがありますし、それが人間を人間ならしめているもの、予想できないカオスである未来に希望を繋いでいるものだと、僕は思います。誰も未来のことはわからない。
たとえば、ニンテンドーDSの「どきどき魔女神判」(話を追加したリメイク版の「どき魔女ぷらす」)では、凄く貧乏な魔法使いの赤井まほは、子猫をこっそり体育倉庫で飼っている(餌をあげている)のですね。
でも、貧乏な彼女には、お金が全然なくて、猫にいつまで餌をあげれるかは分からない。でも、彼女は自分の食費を削っても(彼女の食事はサバ缶なので、猫と兼用)、餌をあげて飼っている。主人公のアクジがそんな彼女の貧乏暮らしを助けて、猫も助かった。僕は、プレイしていて、ああ、いい話だなあと心から思いました。
まほが、経済的な見通しを考えて最初から諦めていたら、子猫は助からなかった。まほが後先考えず、猫たんを助けたことが、まほにも、猫にも、ベストな結果をもたらした。経済的な未来予想なんて、当たるかどうか誰にも分からない。
ただ純粋に、後先考えず、助けたいと思った人間の自然な気持ち。それを経済合理性の名の元に抑圧し、人々を見捨てる冷酷さの肯定するまおゆうの思想、それは、無数の歴史的悲劇を齎してきた、誤った思想であるとしか思えないです。
最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。
後先考えずに、誰かを助けたいと思う気持ち、そういった感情は、まおゆうの中においては、上記引用先の言葉のように、「経済的合理性」とかなんとかいう、感情とは違う、数字の論理で否定されている。その数字の論理が、まるで絶対に正しき世界の救世主であるように描かれている。でも、その経済性が正しいと、一体誰が分かるのですか?未来のことは、それこそ理論的に誰にも分からないということが明らかになっているのです(カオス理論、複雑系)。人間は、今できることをやるだけです。未来の為に、今の残酷さを肯定することほど卑怯な振る舞いはありません。
しかし、まおゆうにおいては全てが合理性の思想、経済的未来予測なるもので支配され、人間の非合理性、感情は、徹底的に否定されています。経済合理性に基く予測は、まおゆうの物語において、金科玉条の如く正しいものとして扱われ、それによって戦争を始めることやその継続すら肯定される。
魔王「グラフというのだ。……これは中央大陸のこの50年の消費量と景気を可視化したものだ」
勇者「……え」
魔王「気がついたように、我らが戦争を始めた15年前から中央大陸の景気は上昇局面に入った」
魔王「嘘ではない。2ページ目を見るが良い。こちらには各種統計資料が添付されている」(中略)
勇者「戦争に意味が……結果的にあったかも知れない」
(まおゆう)
まおゆうの物語世界における合理性と経済学は絶対ですが、実際の世界では合理性に基く経済学・経済予測はしばしば外れます。なぜなら、世界とはあまりに複雑で多様であり、限界ある人間には決して計れない、絶対的に予測不可能な動きを日々しているから。誰も未来を見通すことはできないのです。『ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こす』(エドワード・ローレンツ。カオス理論)。
どき魔女の物語で、貧乏なまほが、主人公のアクジと偶然に知り合い、猫と一緒に救われたような、誰にも予想できない偶発的な出来事が、世界には無数に起きているのです。
カオス理論とは何か?ようするに、「あまりに複雑になっちゃうと、未来を予測できません」ということだ。
たとえば、「明日の天気」とか「ヒラヒラと落ちる木の葉の動き」とかの自然現象について、カオス理論では、「複雑だから絶対に未来を予測できません」と述べている。
普通は「ええ〜?そんなことないでしょ」と思うかもしれない。
「どんな自然現象でも、結局は、単純で機械的な物理法則からできているんだから、どんなに複雑になっても、『がんばれば』ちゃんと未来を予測できるんじゃないの?」と考えるのが人情だ。
でも、カオス理論は、「がんばっても無理!」と言う。
まずは、複雑なシステム(複雑系)について理解しよう。単純な機械をたくさん組み合わせて、どんどん複雑にしていくと、一体どうなるのか?そのシステムは、「初期値をちょっと変えただけで、まったく違った結果を生み出す」という性質を持つようになる。(初期値鋭敏性)
たとえば、ここに、「完璧な天気予報システム」があったとする。風の動きから、気圧、温度など、天気に関係するあらゆる現象を完璧に計算するコンピュータがあったとする。その計算式は、本当に完璧なもので、自然の物理現象を完全に再現したコンピュータなのだから、このコンピュータで計算した天気予報は100%当たるに決まっている。
でもだ。どんなに完全に物理現象を再現したコンピュータでも、原理的には計算するためには必ず最初に初期値を入れてやらないとならない。たとえば、「ある時刻の東京の気温が30 ℃である」などだ。そういう初期状態を決めてやらないと、何も計算できない。
そこで、実際に気温を測って、初期値として入れてみる。30℃とか。そうしたら、コンピュータは完璧な計算をして、「1週間後の東京は晴れ」だという結果になった。じゃあ、今度は、ちょっとだけ、初期値を変えてみる。30.000000001℃とか。そんな微妙な違いなんて、どうでもいいと思うかもしれない。でも、それで計算すると、今度は「1週間後の東京は雨」という結果になってしまうのだ。
ちょっとでも、初期値を変えると、まったく違った結果が出てしまう。それが初期値鋭敏性だ!よく、たとえ話として、「リオデジャネイロで蝶が羽ばたくと、数週間後にテキサスで竜巻が起こる」などと言われるが、まさに蝶の羽ばたきぐらいの条件の違いで、まったく違った結果がでるのだ。
じゃあ、「初期値を完璧にしてやれば、正確な予測ができるのでしょう」と言われると、まったくそのとおりなのだが、その前に「人間の観測は必ず誤差を含み、決して正確にはできない」という事情が出てくる。
そう、人間は、完璧な観測ができないのだ。人間は、「目の前の棒が何メートルなのか」すら言うことができない。だって、棒を拡大して、どんどん正確に測っていっても、「2.030432083840293820482038420830(以下まだまだ続く)......メートル」と無限に観測が続くことになり、どんなにがんばって測ろうとも、原理的に「オッケー!完璧に測りました!」という終わりはないのだ。
その「完璧に測れない、ほんのちょっとした誤差」によって、1週間後の東京が「晴れ」になったり、「雨」になったりと……そのシステム(複雑系)の結果が変わってしまうのだ。
だから、「どんな完璧な天気予報システムを持っていても、やっぱり未来は予測できません」という結論になるのである。
「人間は、たとえ物理現象を完全に解明したとしても、 初期値を完全に観測できないので、決して未来を予測できません」
このカオス理論の結論は、「今、研究している現象について、どんどん法則性を解明していけば、 いつかは、この現象を完全に予測できるようになるはずだ」と思っていた、当時の科学者たちに大きな衝撃を与えた。
(飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」)
僕は、人間が人間を悲劇から救い得ることが可能な、人間に根ざした自然な感情としての憐憫の情は、とてもとても大切なものだと思います。まおゆうの世界では、合理性・経済学の万能性を謳い、自然な感情はその下に置かれています。まおゆうの世界では、合理性と経済学を掲げる人間(魔族)自身が力ある神となっている。それは、とても危険な考え方だと思います。『客観的に判断できない神でない人間が、勝手に力の方法を正義だと言っていることじゃないか!』(石の花)
どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、(まおゆうは)はっきり示しているんです。
ウィキペディア「T4作戦」
T4作戦(てーふぃあさくせん、独: Aktion T4、英: T4 Euthanasia Program)は、ナチス・ドイツにおいて優生学思想に基づき1939年10月から1941年8月にかけて行われた安楽死政策を指す。名称は本部の所在地、ベルリンのティーアガルテン通4番地 (Tiergartenstraße 4) に基づき戦後に付けられた名称である。一次資料には E-Aktion(エーアクツィオーン), もしくは Eu-Aktion の名称が残されている。この政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている(戦後のニュルンベルク裁判の検察側による見積もり)。
この政策の目的は、ドイツ国民の“遺伝的な純粋性”を守るためのものであり、また身体障害者や精神障害者を組織的に根絶するというものであった。障害のある子供たちは家族から引き離され、特別な病院に入れられた。障害を持つ成人に関しては、すでに "Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses" の結果として強制的避妊の対象となっていたにもかかわらず、この政策の対象となった。(中略)
ナチスは「役に立たない人間」を「安楽死(もしくは尊厳死)」させることと見なしていた。しかし当人や彼らの身内からの承諾はなく、優生学的な目的は、後の時代だけでなく同時代にも殺人だと見なされた。
このT4作戦は、1941年8月にヒトラーの命令で中止となった。キリスト教の弱者保護の教えに反するとして、犠牲者の親類等の不満が高まったのと同時にキリスト教の司教らが反対したのが原因と言われているが、今日でも中止理由は完全には明らかになっていない。
まおゆうみたいな物語が出ることを否定はしません。表現の自由、出版の自由は大切です。だけど、これが素晴らしい物語として大勢の人々に支持を集めているということには、僕は恐ろしさを感じます…。
まおゆうを『素晴らしい偉大な物語だ!!』と讃えている大勢の人々は、全体的な経済的合理性の為に、『どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。』『「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、(まおゆうは)はっきり示しているんです。』という、まおゆうの思想を肯定しているんでしょうか…。そこには、「T4作戦」のような「合理性を大義名分にした非人道的行為」を肯定する気持ちがないでしょうか…。
もしそういった気持ちがあるのだとしたら、まおゆうが支持されるということに、深く絶望の気持ちです…。恐怖で心が真っ暗になります…。
当地では、経済的運命と人間自身との間には区別はない。人はその資産・収入・地位、チャンス以外の何物でもない存在だ。経済的な役柄を示す仮面と、その下の素顔は、御当人を含めて、人々の意識の中では、小皺の果てまで一致している。
人は誰でも稼ぎ高によって評価され、評価の高い人は、その分稼ぎも多い。自分が何者であるかは、その人の経済生活の浮き沈みによって評価される。それ以外の自分などは本人すら知りはしない。(中略)
人々は自分に固有の自己を、その市場価値によって判定し、自分が何者であるかを、経済のなかで上手にやれるかどうかによって学んで行く。彼の運命は、たとえ、それが全く嘆かわしいものであっても、彼らにとって既に外面的なものではない。彼らはそれを内面化している。(中略)
(経済的に低い立場にある)アメリカ人は言う。「俺は全くの落伍者さ――そして、それだけの話さ」
(アドルノ、ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」)
「収容所で殺された人々は、自分たちを殺す相手に対して何もしていない。そう言いたいのかね?憎しみや戦争の理由になるようなことはなにもなかったと?」
僕はうなずきたくなかった。彼の言うことは正しいけれど、彼の言い方はよくなかった。
「君の言うとおり、戦争や憎しみの理由なんてなかった。けれど、死刑執行人だって自分が処刑する人を憎んでいるわけでもなく、それでも刑の執行はするんだよ。命令されたからそれをすると思うかね?私が今から命令と服従の話をし、収容所の職員たちは命令されたからそれに従わなければならなかった、と言うとでも思ったかね?」
彼は軽蔑するように笑った。
「いや、命令と服従の話なんかしないよ。職員は自分の仕事をし、邪魔だとか脅かされたとか攻撃されたとかいうような理由で囚人を憎んで処刑するのでもなければ、彼らに復讐するために殺すのでもない。囚人なんて彼にはどうでもいいのさ。殺したって殺さなくたってどうでもいい存在なのさ」
彼は僕を見つめた。
「『でも』って言わないのかい?そら、言ってごらんよ。人間は他人をどうでもいいなんて思っちゃいけないって。習わなかったのかい?人間の顔をしたものとは何でも連帯せよって?人間の尊厳?生への畏敬?」
僕は憤慨したが、どうしたらいいかわからなかった。彼が言ったことを打ち消し、彼が話せなくなってしまうような強力な言葉、強力な文章はないか、と探した。
(ベルンハルト・シュリンク「朗読者」)
全てが経済的な多寡で判断される社会では、経済的な価値のないとみなされたもの、病者や無業者は徹底的に弾圧されて、滅ぼされて行くでしょう…。まおゆうが讃える、そういった経済合理支配社会は、心の痛む、恐ろしい社会だと僕は思います。経済合理性を非合理に崇めてそれだけに生きるのならば、人間は人間と言えるのでしょうか。
思いやりを、愛を、優しさを持つことができる人間の心というものを、経済予測による未来などよりも、もっと信じるべきだと、僕は思います。もっと、人間の心を信じること。それは未来を信じること。どき魔女の赤井まほのように、後先考えない思いやりの感情、そういった優しさ、思いやり、生命に対する慈しみが、世界を少しずつ、僅かずつでも、良くしていくものだと思います。
参考作品(amazon)
どき魔女ぷらす(特典無し)
どきどき魔女神判!2(Duo)(通常版)(特典無し)
どきどき魔女神判!(1) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判! (2) (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 1 (チャンピオンREDコミックス)
どきどき魔女神判2 2 (チャンピオンREDコミックス)
哲学的な何か、あと科学とか
史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)
カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)
世界の半分が飢えるのはなぜ?―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)
朗読者 (新潮文庫)
石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)
石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)
石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)
石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)
石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)
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