完全版 最後のユニコーン

他人であることがいったいどういうことかということを我々に想像させてくれるのだ。それは我々が思いやりというものを身につけるための道である。
(レイモンド・キトリッジ「不死身なるもの」)

前回、ファンタジー漫画のお勧めを挙げたので、今回はファンタジー小説のご紹介をさせて頂きますね。ファンタジー小説の御三家「指輪物語」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」は素晴らしいですが(僕はナルニアが子供の頃に嵌ったので一番好きですね)、これらについては多くの人が取り上げているので、ここでは、あまり知られていなさそうなお勧めファンタジー、ピーター・S・ビーグル「最後のユニコーン」を取り上げます。

ハガード王もリア王子もドリンもあんたも僕も、みんなお伽話の中の存在に過ぎない。だからお話の筋書き通りに行動するだけだ。けれどユニコーンは本物なんだ。ユニコーンは。
(ピーター・S・ビーグル「最後のユニコーン」)

「最後のユニコーン」は、主人公達が強くなり活躍する、「各人の強さ」に主眼が置かれたヒロイックファンタジーのお約束を逆転させた、メタ・ファンタジー。登場人物達は、「ファンタジーの中の定型的な登場人物であることを自覚している登場人物」達、主人公は、人知を超えた神の眷属たる女性ユニコーンです。

本作には既存のファンタジーに対するアンチテーゼ風味のパロディが沢山あって、ファンタジー小説好きにとって、とても楽しい小説です。中でも面白いのは、ユニコーンの姿は、人々にはもはや見えないんですね。ユニコーンは、永遠の理想の具現であり、理想(他者のことを思いやれる想像力)を捨てて現実に合点してしまった人々、利益の為に大事なものを捨てることを是としてしまった人々には、彼らがどんなに強くても、世界を変革する優れた力のある英雄であっても、もはや感じられないものなのです。

本作は様々な解釈のできるファンタジーですが、おそらくは、ユニコーンは、「他者の身になって考える想像力によって生まれる理想の具現」そのものなのですね。それを上手く、作中のハガード王達、「独善的な英雄として存在することに嫌気が差している、ファンタジーの登場人物であることに自覚的な登場人物達」が具現するヒロイックファンタジーの英雄類型の「強さと空虚さ」と対比させていて、上手いなあと。まおゆうの登場人物達はみんな「ハガード王類型(支配効率を上げる為の犠牲を是とする合理的かつ打算的な支配者類型)」ばかりなので、まおゆうを既に読んでいる人々にはその辺も面白いかと思います。ハガード王がとんでもないドケチで常に満たされない思いを抱いているのは、経済合理性一辺倒な人々を風刺しているのかなと。

まおゆうにリア王子のようなキャラクター(善良すぎてひたすら愚かだが、ゆえに心をうつ。彼がユニコーンの物語を救う)がいれば、また別の形の物語になったように思いますね…。まおゆうにリア王子タイプはいないですから…。まおゆうにおいて「人間の愚かさ」は、ひたすらに弾劾される「負のもの」ですが、「最後のユニコーン」は全く逆に、人間に愚かさや弱さ、後悔する心があるからこそ、人間は現実に屈せず遥かな理想を夢見られる、他者に慈しみ、愛情を抱けるのだ、ということを描いていて、僕はこっちの方が遥かに好きですね。

「最後のユニコーン」は、理想を求め、他者に愛情を抱くことと、弱さや愚かさ、後悔することということは、表裏一体(どちらも自身の不完全さ、人間の不完全さに対する意識と、そこから生まれる希望への想い)であり、現実を割り切って合点してしまえば、理想はどこにもなくなってしまうのだいうことを、上手に描いていると思いますね。漫画「石の花」の問題意識などとも通じるなと思います。問題があっても、「問題はない」「やむをえない」と考えて目を瞑るとき、その問題は目の前から消されてしまう訳ですね。ユニコーンの存在が人々の意識から消されているように…。

本作において、ただ一頭でいる時は、完全に充足した理想存在そのものであったユニコーン、彼女も人間に変身して人々と暮らすことで、人間の不完全さや弱さを持つ身となり、不完全な存在ゆえの合理的、打算的ではない不条理な感情、不完全であるからこそ抱ける他者への慈しみや愛、それらを自らの身で知ってしまい、永遠の理想を具現化したユニコーンという存在ではなくなってしまう。他者を知る、他者の不完全さを知るということは、自分を知る、自分の不完全さを知るということと一体なのだということを、描いているのだと思いますね…。姫がユニコーンに戻ったラストは、心をうちます…。

仲間たちは、去りました。みんな、自分がやってきた森に散っていきました。一頭ずつ。そして、人間たちには、たとえば、みんなが依然として海の中にいたとしても、それ以上に、その姿を見ることは難しいでしょう。わたしもまた、自分の森に帰るつもりです。けれども、そこで、あるいはそれ以外のどこであっても、満足して生きていけるかどうか、わたしにはわからない。わたしは、人間でした。そして、わたしの内のある部分は、いまだに、人間のままなのです。泣くことも、何かを望むことも死ぬこともできないのに、わたしは、涙と飢え、死の恐怖に満たされているのです。もう、わたしは仲間たちと同じではないのです。後悔することのできるユニコーンなど、生まれたことはないのですから。でも、わたしは後悔することができるのです。わたしは後悔しています。
(ピーター・S・ビーグル「最後のユニコーン」)

ここでの「後悔」、それはネガティブな意味だけを持っているのではなく、他者への愛を可能にし、人間を人間ならしめている「後悔」であることが、伝わってくるのが、小説として実に素晴らしいですね…。レイモンド・カーヴァーの小説をレイモンド・キトリッジが評した文章を思い出します…。最後に、この評を引用させて頂きますね。

我々にとっていちばん役に立つ物語というのは、我々の最も高潔なありかたと、もっとも不実なありかたに同時に焦点を当てるもののことだ。ここにあるトラブルは、あるいはあなた自身のトラブルであるかもしれないのだ、と小説は語る。この不公正は、あなた自身のものだ。これらの栄光もまたあなた自身のものだ、と。(中略)

レイ(レイモンド・カーヴァー)の最後の小説である『使い走り』はチェーホフの死についての短編である。死に際してシャンパンを飲み、祝うべくしてあるものを祝う、それはすなわち、我々の持っているもの(想像力)を祝福するということである。それは彼の「他人の身になってみること」「盲目であることを試してごらん」型の短編のひとつである。隣人の家のベッドルームの鏡の前に立って、隣人の奥さんの下着を身につける男の物語のように、別の人間になろうと試みる物語のひとつである。

レイは世界に対して、彼がしぼり出せるだけの力強さと高潔さを与え、不自然なほど短縮された人生の中で死んだ(これは我々みんなに言えることなのだが)。この死の時までに、レイは自らのもろもろの信念の磨き上げ凝縮した意味とでもいうべきものに到達していた。彼はこう言えばいいと思ったのだ。よろしい、町じゅうに哀しみが溢れている――しかし我がチェーホフとおなじように、私は私自身を許そう。そして何はともあれ幸福というやつを試してみよう。

我々の人生がいかに恐ろしいまでに見当違いの方向に進んできたものであったにせよ、我々はそれらが最終的には許しを受けるものであることを祈るしかない。このアメリカという文明は燃え盛るナパームを赤ん坊の上に注いだ。承知の上でそれをやったのだ。これは政治的打算とは関係のないことだ。我々のやっていることの多くは狂っているとしか言い様がない。

我々は文明の物語を知っている。それを征服と押しつけられた法律と暴力の歴史と言い換えることも可能だろう。我々は新しい歴史を必要としている。我々は親愛というものに価値を置くことを学ばねばならない。誰かが我々に憐れみの歴史を与えなくてはならない。やがては許しと思いやりの歴史へと転じていくような。

レイの最良の作品は、自分がいかに狼狽しているときでも、なんとか他人に暖かくまっとうでありつづけようとする試みの必要性を示唆している。それらは有用性という点で傑出している。他人であることがいったいどういうことかということを我々に想像させてくれるのだ。それは我々が思いやりというものを身につけるための道である。それは偉大なことだ。そのような親愛の中で、我々は互いを慈しむことを学ぶのだ。想像するという行為を持続させることを通して。これほど政治的なことは他にはあるまい。
(レイモンド・キトリッジ「不死身なるもの」「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」より)

参考作品(amazon)
完全版 最後のユニコーン
私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー (村上春樹翻訳ライブラリー)
石の花(1)侵攻編 (講談社漫画文庫)
石の花(2)抵抗編 (講談社漫画文庫)
石の花(3)内乱編 (講談社漫画文庫)
石の花(4)激戦編 (講談社漫画文庫)
石の花(5)解放編 (講談社漫画文庫)
リア王 (光文社古典新訳文庫)
Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選

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