ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)
聖戦記エルナサーガ (1) (GFC super)

まおゆうについて少し書いたら、話題になってて吃驚です。この物語から全編通して訴えかけられている、人間に対する極度の冷酷さへの勧めは、僕はどうしてもこれはやっぱりおかしなものであると思いますね…。まおゆうは、本当に弱い立場にある人々、抵抗すらできない立場にある人々のことを差別し、完全にスポイル(排除)することで成り立っています。

まおゆう作中での農奴の扱いが典型ですけど、本作の流れとしてずっと通底しているのは、『悲惨な現状(農奴など)から脱する意志を持って行動する奴が運良く我々の目に入れば支援しよう、しかし悲惨の現状に甘んじているような輩(=農奴の大半)は、助けを求める虫けらに過ぎぬわ、その弱さを灼かれて死んで償え!!』みたいな考えでしょう。まおゆうの作品全体を支配する世界観がメイド長や女魔法使いの価値観と共鳴している冷酷な社会的ダーウィニズムであることは否定できぬ事実だと思います。

メイド長「やっていることはメイドと代わりはありませんよ。主人の意を受けて、主人の言葉なら何でもしたがう。主人の夢を叶えるため、そのために命を捧げる。奴隷とたいした違いは有りはしません」

魔王「メイド長。私はお前を奴隷だなどと思ったことは有りはしないぞ」

メイド長「ええ、まおー様。私もそのような扱い、まおー様より受けた覚えはありません。でもだからより一層、正視に耐えません。私と同じ仕事をしながら、自らの手に運命をつかむことの出来ないその弱さは、灼かれて死んで償うべきかと思います」
(まおゆう)

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/
物語は、農奴で悲惨な暮らしをしている二人の少女が、魔王と勇者の住もうとしている屋敷に逃げだしてくるところから始まります。

農奴の奴隷状態から逃げ出してきた二人のかわいそうな少女に、魔王の親友であるメイド長は「こんな虫けら、早く村に突き出しましょう!」と。

これは、正しい態度です。それは、2点から。一つは、魔王と勇者は、こうした悲惨なことがなくなるように「マクロ」のために立ち上がったわけであって、個々のミクロに関わっていては大局を見失う可能性が高く、また最後まで彼女たちを救うことができないのならば、むやみに手助けすべきではないのです。最後まで面倒を見れないのに捨て猫を拾うなと同じことです。

またいきなり「虫けら!」と吐き捨てるのは、強い倫理的な怒りがメイド長の中にはあります。どんなに悲惨であっても「自分の生活を自己の力によって改善しないものは」虫けらなんです。それを外部から助けることは、その奴隷の「人間としての動機と尊厳」を傷つけるだけであって、言い換えれば「ただ助けてくれ!」などというもの「実際具体的に戦う方法を見いだせないもの」は、虫けら=奴隷なのであって、「助けてくれ」などという他者に安全保障を委ねるような行為を叫ぶ時点で、そいつはどこまで行っても救う価値すらもない虫けらなんです!ということを、はっきり示しているんです。

上記エントリが的確に現しているように、まおゆうの物語全体に、おかしな形で自己責任論とそれによる冷酷さの正当化が流れている。これはどう考えてもおかしい、危険な考え方だと思います。

制度的に虐げられた境遇の中にいる人々に、『農奴から解放されるかどうかはお前達の自己責任だ』と説くのは、彼らを虐げている制度の味方をしていることに他なりません。これって典型的な物語の悪役の思想ですよ。魔王とかも明らかに典型的悪役の発想(社会の為に犠牲はあって然るべきだという発想)で動いていますし、悪役を悪役として読むのならいいですけど、まるで、悪役を正しき善サイドのように読むのは頂けませんね…。

魔王「奴隷制は悲劇的かもしれないが社会制度の中で経済的にも意味があったのは事実なのだ」
(まおゆう)

自己責任論は、それこそ、完璧なまでに普遍的人権による保障が達成され、人々一人一人が社会の徹底的な公平性の上に暮らしている理想郷において、始めて十全たる論として唱えることができる論でしょう。けれど、この現実世界はそのような公平な社会ではないですし、なによりも、まおゆうの社会は、不公平な我々の現実社会よりも更に酷い。まおゆうの社会は、人権が無く、貴族制・奴隷制という究極的に不公平な制度に支配されている社会でしょう。不公平な世界において、自己責任論の主張が作品の正義として流れることほどおかしなことはないと思いますよ。結果として、まおゆうは、不公平な社会を強烈に肯定し、虐げられている人々を更に虐げる言説を正しきものとして取り扱うことになっている。まおゆうにおいて、物事は各人の意志に帰結するのですから。これではまるでカルマ、呪術的思考ですよ…。

各人の意志も確かに実存的には重要な問題だと思います。ただ、人々の苦しみを考えるなら、究極的には人々を虐げている制度こそが、問題になるべきでしょう。制度の問題を各人の意志の問題に帰結させてはならぬのに、まおゆうは超人キャラクターの超人性を際立たせることで、制度の問題を各人それぞれの意志の問題に帰結させている。例えば、まおゆうでの農奴解放問題は、各国の王などの指導者達の個人的問題になってしまっている。人々を虐げている制度というものが、どれも各人の意志の問題にされてしまうことで、制度自体が棚上げにされて見えなくされている。

こういった物語の手法はおかしいと思いますよ。人間それぞれの意志ではどうにもならぬことが、世にはそれこそ無数にある。人間各人の意志を超えた、社会の枠組として世界はある。そういった、人々の意志を超えた世界の在り方を描くことで、人々の無数の価値観(意志)が物語のなかに現われ、それらがそれぞれ輝きを放つ。優れたファンタジーは無数の価値観、無数の人間を真摯に眼差すものであると思いますよ。それは、自己責任論が正義のように振る舞い、虐げられた制度の中にいる人々を物語が一方的に裁いてしまうようなものでは決してないことは確かです。

いくつか、僕のお勧めのファンタジーを紹介しますね。まずは、北欧ヴァイキングの姿を描いた、ヴィンランド・サガです。非常に良く出来たお勧めの歴史ファンタジーです。以下、引用致しますね。

ホルザ
「ねェ、君も奴隷なの?」

トルフィン
「あァ?」

ホルザ
「え、だって そんなとこで食べてるし……………」

トルフィン
「俺は戦士階級だ。台所の隅で食うあんたと違ってメシ食う場所を自由に選べる」

ホルザ
「そう……なの……?でもなんだか君……私と同じって感じがするから……」

トルフィン
「奴隷の気持ちなんざ知るか俺とあんたは違う!俺があんただったらゴルムを殺して逃げる!追っ手も全員殺す!」

ホルザ
「………そんな……殺すなんて……」

トルフィン
「はっ、なら一生奴隷でいればいい。あんたの勝手だ」

ホルザ
「……逃げて……………どこまでも逃げて、海の彼方まで逃げ切ったら……そこには何があるのかしら。水平線の向こうに……もし……戦も奴隷商人もいない……平和な国があるなら……」
(ヴィンランド・サガ)

まおゆうのメイド長とメイド姉と違って、ヴィンランド・サガでは、主人公のトルフィンがこのシーンで否定されていないように、抵抗する気力を持たない奴隷のホルザもこのシーンで否定されていないことに注意すべきです。この後、逃亡奴隷が死ぬシーン、逃亡奴隷は捕まったら拷問されて殺されることを示すシーンが続くので、ますます持って、ホルザを、『自らの手に運命をつかむことの出来ないその弱さは、灼かれて死んで償うべきかと』(まおゆう)のような酷い言葉で責めることはできません。

ヴィンランド・サガでは、無数の価値観が、相対的・価値中立的に描写されていることで、世界観が立体的になっている。ちなみにここでのトルフィンの「反逆すればいい、殺せばいい」という、如何にも「まおゆう的」考え方は、いずれ、手ひどいしっぺ返しをくらうことになります。物語が人間の弱さにきちんと目を配っているところに好感を覚えますね…。

優れた物語は、大体において、物語を描写する眼差しに価値中立性を持っている。それが、物語に、複数的・多様的な見方、立体性を齎す。逆に、何かしらの一方的な思想で書かれている物語は、のっぺりとした一方向的平面であり、現実味はありません。それは、物語が思想に奉仕しているから。まおゆうは典型的な後者であり、ネオリベ経済学、自己責任論、社会的ダーウィニズムに奉仕している一方向的に平面な物語です。

もう一つ引用しますね。TVゲームのファンタジーの影響を受けてながら、それを上手に昇華した作品、異世界ファンタジー漫画の傑作、堤抄子さんの「エルナサーガ」から。超人的な人物(ヒロイックな人物)の活躍を描きながら、ちゃんとその限界性も同時に描いていて、ヒロイックな人物を無条件に持ち上げていないところが好感が持てる作品です。ヒロインのエルナの見せ場から。

エルナ
「――平和のためとあらば、世界の地の果てまで行って名乗りを挙げましょう。でも、誰かの覇権のためになど、私は決して動きません。たとえ我がアーサトゥアルのためにでも」

シャールヴィ
「……我がアーサトゥアルか…」
(エルナサーガ)

祖国アーサトゥアルをどうしても第一に考えてしまうエルナの心情を、アーサトゥアルに忠義を持っていないシャールヴィから見ることで、ヒロイックな口上を相対化しているシーンです。超人的な能力を持つとても強い人間、どんなに英雄的で立派に見える人間も、実は弱いところを持っている。ゆえに、『自らの手に運命をつかむことの出来ないその弱さは、灼かれて死んで償え!』などと言う傲慢は、誰にとっても不幸なのだ!ということをきちんと描いていて、好きな作品です。

ヴィンランド・サガもエルナ・サーガもそうですが、群像劇というのは、それぞれの異なる価値観がそれぞれを相対化し合うんですよ。優れた物語は各人の相対的な様々な価値観を価値中立的に描くことで、人間の多様性を描き、価値観・立場の違う人間それぞれに愛情を感じさせてくれる。一方的な価値観から読者を解放して、相対的な眼差しを得ることができる力、それが優れた物語の持つ大きな素晴らしい力だと思いますね。ヴィンランド・サガ、エルナ・サーガ、両方ともお勧めの作品ですね。後は、「ヒストリエ」「寄生獣」なんかもとても良い歴史ファンタジーとSFファンタジー、お勧めです。

まおゆうには、相対化の視点は決定的になく、勇者&魔王サイドのキャラクターを物語がひたすらサポートしていますね…。そしてそこで一方的に肯定的に語られることが、一方的な冷たい弱者切り捨ての思想、社会的ダーウィニズムの思想であることは、もっと考えられて然るべきことだと、僕は思いますよ…。

参考作品(amazon)
ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)
聖戦記エルナサーガ (1) (GFC super)
ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC)
寄生獣(完全版)(1) (アフタヌーンKCDX (1664))

amazonオタクストア

amazonトップページ