Angel Beats! 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
Angel Beats!2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
上記を拝見して、なんでAngel Beats! が僕にとって、物凄くつまらない作品なのか非常に自明に理解できたように感じましたね…。Angel Beats! って物凄く『ナルシスティック』で『説教臭い』んですね。麻枝准氏の作品は「説教ゲー」の異名をとる「智代アフター」以降、急激に自己愛的かつ説教臭くなってゆきますが、まさにそれが頂点に達しているのが、Angel Beats! と言えるのではないかと思います。アフタヌーンの漫画家篠房六郎さんが的確に指摘していますが、僕も同感ですね。
Angel Beats! って、突然登場人物が説教臭い不幸自慢を始めたり、特に何もしていない主人公音無が突然説教を始めたりするたびに、ポカーンとしか言い様のない、唖然とした状態、茫然自失状態に陥っていましたが、特に第六話の説教は凄かった。それまで何もしていない空気主人公音無が、突然に語り始めます。
この説教が始まったとき、余りにも筋が繋がっていないので、キングクリムゾンで時間がぶっ飛ばされたのかと思いましたよ。一体何がどうなっているのか理解に苦しみました…。あまりに強引な展開に、見ている僕としてはもう笑うしか…。まさに下記のような感じでした。

説教シーンを流すには、そこに至るに足るだけの説得力が必要ですが、Angel Beats! はそういう説得力を描くのを完全に放棄して、突然唐突に上記のような説教だけが始まるんですよね…。岩沢の説教臭い不幸自慢とか、今回の音無の説教とか、あまりにも突然、それまでの流れを無視して説教が始まるので、驚きというか、あまりにも唐突かつデタラメ過ぎて笑ってしまう。登場人物達がこれでは道化です。
言ってみれば、Angel Beats! は、ご老人が唐突に『近頃の若いもんはなんじゃ!わしの若い頃はもっと苦労したもんじゃ!わしはなんとかかんとか〜』と突然説教をし始めるようなアニメなんですね。新聞の投稿欄ならこういった独善的な説教が載っていてもいいと思いますけど、エンターテイメントたるアニメなら、説教をするにも、説教に至る必然性を感じさせるドラマが必要です。Angel Beats! にはそういったドラマが全くないのはどう見ても問題かなと思います。
例えば、アニメにおける屈指の名説教としては、天空の城ラピュタのシータの台詞が挙げられます。以下の台詞ですね。
これなんかは、この台詞を述べるに至る経緯を素晴らしくドラマティックに、2時間掛けて丁寧に描いていて、ドラマの最高潮の盛り上がり、クライマックスにおいて、ここで述べられることの正しさに命を賭けているシータが命を賭して述べる台詞だからこそ、僕含め観客は、感動させられるんですね…。しかも、ラピュタの場合は、シータのアンチテーゼたるムスカが、この台詞、ラピュタのメインテーマであるこの思想に対して反論を述べて(下記)、それによって更に上記の台詞の効果は高められる。
登場人物の自然な造形、物語を盛り上げるドラマ、その台詞を言わざるを得ない経緯の必然性、そして対立するアンチテーゼの存在。それらがあって、やっとエンターテイメントの説教は効果を発揮するのですが、Angel Beats! の場合、それらが全て欠如したまま唐突に説教が始まるので、新聞の投稿欄で「最近の若いものは〜」と繰り言を述べる代物とたいして変わらなくなっている。
AIRまでは良かったんですが、CLANNADの尾崎豊シーン以降、智代アフターのネット説教シーン、そしてリトルバスターズEXと、麻枝准さんのシナリオにおいて、どんどん説教要素、物語の流れとして説教という要素があるのではなく、『説教することそれ自体を最大の目的としてダイレクトに説教する』というシーンが増えてきたように感じますが、それが最も悪い方向性において結実してしまったのが、Angel Beats! と言えるかなと思います。
Angel Beats! では、それこそ、キングクリムゾンを連発されているかの如く、前後の繋がりがメチャクチャなままシーンを連結してゆく、凄まじく強引な展開で、やたらと唐突な不幸自慢シーンや説教シーンに持っていく。「不幸を自慢するシーン」「説教をするシーン」を流すことが物語の目的になっていて、それ以外のシーン・プロット・人物造形・舞台設定などは物凄く適当なものになっている。
これは、AIRを非常に高く評価している僕としては、残念な方向性に行ってしまったなあという思いを禁じ得ません…。AIRの観鈴が感動的なのは、彼女は凄まじく不幸ですが、自身の不幸を自慢してナルシスティックな自己愛に浸ったりすること(そのようなテキスト)は決してなく、不幸に耐えながら懸命に歩んでいるからで、その気高さに胸を打たれる訳ですね…。
それが、AIR以降、だんだんと、KEY作品、麻枝准作品に、自らの不幸に陶酔しナルシステックな自己愛をあけすけに語るテキストが増えてきて(CLANNADの尾崎豊キャラのシーン、智代アフターの智代など)、その究極系として、Angel Beats!が生まれた。この作品では 登場人物達が、ひたすら「不幸自慢」や「説教」という形でナルシスティック(自己陶酔的)に振る舞い、自己愛を顕示する作品になってしまった。このような方向性に行ってしまったのは、AIR好きとしては、本当に残念、悲しいですね…。自己に甘いナルシシズムと、自己に厳しい気高さは決して両立しません。Angel Beats!はナルシシズムの方向を完全に向いている作品で、麻枝准さんのシナリオがこっちの方向に行ってしまったことが、本当に残念です…。
創作のなかに説教をするシーンがあること自体は問題はないんですね。ただ、説教というのは、感情を動かすとき、二つの相反する方向に動かす力があるものだという理解が作り手には必要かと。先の天空の城ラピュタのシータのように、気高い者が気高く説教するならば、それは人々の心を感動・崇高へと動かします。逆に愚劣な者、ナルシシズムに染まった者が自己陶酔的に説教するならば、それに対して人々は馬鹿げた滑稽さしか感じ得ることはありません。
Angel Beats! は明らかに後者の方向性であり、ギャグコメディとしてやるならまだ分かるんですが、どうやら製作側は前者と後者の区別をつけていないように見えるのが、本当に、なんともはや…。シータや観鈴は気高い美しさを感じさせますが、Angel Beats! の登場人物達は皆、一切の美を全く感じさせない、滑稽なナルシストになってしまっているということを、製作側は今一度考えてみるべきではないかと思いますね…。客観的に見たときに、その行動が全く美しくない愚劣な登場人物達(ヒロインである筈のゆりとか、愚劣な振る舞いの数々が余りにも酷い)が、唐突に悲劇の登場人物のように振舞っても、それは悲劇のカリカチュア(戯画化)、滑稽な喜劇にしか見えないですよ…。
参考作品(amazon)
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天空の城ラピュタ [DVD]
詩学 (岩波文庫)
ノベルゲームのシナリオ作成技法
三島由紀夫文学論集 I (講談社文芸文庫)
三島由紀夫文学論集 II (講談社文芸文庫)
三島由紀夫文学論集III (講談社文芸文庫)
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客観的に見て全然美しくないものがナルシシズムに陥っているのは滑稽に見える……
(三島由紀夫「ナルシシズム論」)
Angel Beats! 第6話の感想
http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20100510/1273419322
上記を拝見して、なんでAngel Beats! が僕にとって、物凄くつまらない作品なのか非常に自明に理解できたように感じましたね…。Angel Beats! って物凄く『ナルシスティック』で『説教臭い』んですね。麻枝准氏の作品は「説教ゲー」の異名をとる「智代アフター」以降、急激に自己愛的かつ説教臭くなってゆきますが、まさにそれが頂点に達しているのが、Angel Beats! と言えるのではないかと思います。アフタヌーンの漫画家篠房六郎さんが的確に指摘していますが、僕も同感ですね。
篠房六郎さんツイッター
http://twitter.com/sino6
ANGELBEAT、この展開と状況を誰か俺に分かり易く説明してくれる人は居ませんか?誰か現場で脚本家をブン殴る度量のある人間はいなかったのか。
なんかこう、コレとか禁書目録とか見てると、作者の人に何はさておき、とにかく説教したい、というガチの欲求が垣間見えて戦慄する。恥ずかしくないのかなあ。
説教欲、というもんが創作を突き動かすケースもあるんだなあ。すごいなあ。
Angel Beats! って、突然登場人物が説教臭い不幸自慢を始めたり、特に何もしていない主人公音無が突然説教を始めたりするたびに、ポカーンとしか言い様のない、唖然とした状態、茫然自失状態に陥っていましたが、特に第六話の説教は凄かった。それまで何もしていない空気主人公音無が、突然に語り始めます。
「俺たちの生きてきた人生は本物だ! 何ひとつ嘘のない人生なんだよ! みんな懸命に生きてきたんだよ! そうして刻まれてきた記憶なんだ! 必死に生きてきた記憶なんだ、それがどんなものであろうが、俺たちの生きてきた人生なんだよ! それを結果だけ上塗りしようだなんて。お前の人生だって、本物だったはずだろぅ!」
この説教が始まったとき、余りにも筋が繋がっていないので、キングクリムゾンで時間がぶっ飛ばされたのかと思いましたよ。一体何がどうなっているのか理解に苦しみました…。あまりに強引な展開に、見ている僕としてはもう笑うしか…。まさに下記のような感じでした。

説教シーンを流すには、そこに至るに足るだけの説得力が必要ですが、Angel Beats! はそういう説得力を描くのを完全に放棄して、突然唐突に上記のような説教だけが始まるんですよね…。岩沢の説教臭い不幸自慢とか、今回の音無の説教とか、あまりにも突然、それまでの流れを無視して説教が始まるので、驚きというか、あまりにも唐突かつデタラメ過ぎて笑ってしまう。登場人物達がこれでは道化です。
言ってみれば、Angel Beats! は、ご老人が唐突に『近頃の若いもんはなんじゃ!わしの若い頃はもっと苦労したもんじゃ!わしはなんとかかんとか〜』と突然説教をし始めるようなアニメなんですね。新聞の投稿欄ならこういった独善的な説教が載っていてもいいと思いますけど、エンターテイメントたるアニメなら、説教をするにも、説教に至る必然性を感じさせるドラマが必要です。Angel Beats! にはそういったドラマが全くないのはどう見ても問題かなと思います。
例えば、アニメにおける屈指の名説教としては、天空の城ラピュタのシータの台詞が挙げられます。以下の台詞ですね。
『これが玉座ですって?ここはお墓よ、あなたと私の。国が亡びたのに王だけ生きてるなんて こっけいだわ。あなたに石は渡さない。あなたは ここから出ることもできずに私と死ぬの。今は ラピュタがなぜ亡びたのか、私、よくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。土に根をおろし 風とともに生きよう。種とともに冬をこえ、鳥とともに春を歌おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!』
これなんかは、この台詞を述べるに至る経緯を素晴らしくドラマティックに、2時間掛けて丁寧に描いていて、ドラマの最高潮の盛り上がり、クライマックスにおいて、ここで述べられることの正しさに命を賭けているシータが命を賭して述べる台詞だからこそ、僕含め観客は、感動させられるんですね…。しかも、ラピュタの場合は、シータのアンチテーゼたるムスカが、この台詞、ラピュタのメインテーマであるこの思想に対して反論を述べて(下記)、それによって更に上記の台詞の効果は高められる。
『ラピュタは亡びぬ、何度でもよみがえるさ。ラピュタの力こそ 人類の夢だからだ』
登場人物の自然な造形、物語を盛り上げるドラマ、その台詞を言わざるを得ない経緯の必然性、そして対立するアンチテーゼの存在。それらがあって、やっとエンターテイメントの説教は効果を発揮するのですが、Angel Beats! の場合、それらが全て欠如したまま唐突に説教が始まるので、新聞の投稿欄で「最近の若いものは〜」と繰り言を述べる代物とたいして変わらなくなっている。
AIRまでは良かったんですが、CLANNADの尾崎豊シーン以降、智代アフターのネット説教シーン、そしてリトルバスターズEXと、麻枝准さんのシナリオにおいて、どんどん説教要素、物語の流れとして説教という要素があるのではなく、『説教することそれ自体を最大の目的としてダイレクトに説教する』というシーンが増えてきたように感じますが、それが最も悪い方向性において結実してしまったのが、Angel Beats! と言えるかなと思います。
Angel Beats! では、それこそ、キングクリムゾンを連発されているかの如く、前後の繋がりがメチャクチャなままシーンを連結してゆく、凄まじく強引な展開で、やたらと唐突な不幸自慢シーンや説教シーンに持っていく。「不幸を自慢するシーン」「説教をするシーン」を流すことが物語の目的になっていて、それ以外のシーン・プロット・人物造形・舞台設定などは物凄く適当なものになっている。
これは、AIRを非常に高く評価している僕としては、残念な方向性に行ってしまったなあという思いを禁じ得ません…。AIRの観鈴が感動的なのは、彼女は凄まじく不幸ですが、自身の不幸を自慢してナルシスティックな自己愛に浸ったりすること(そのようなテキスト)は決してなく、不幸に耐えながら懸命に歩んでいるからで、その気高さに胸を打たれる訳ですね…。
それが、AIR以降、だんだんと、KEY作品、麻枝准作品に、自らの不幸に陶酔しナルシステックな自己愛をあけすけに語るテキストが増えてきて(CLANNADの尾崎豊キャラのシーン、智代アフターの智代など)、その究極系として、Angel Beats!が生まれた。この作品では 登場人物達が、ひたすら「不幸自慢」や「説教」という形でナルシスティック(自己陶酔的)に振る舞い、自己愛を顕示する作品になってしまった。このような方向性に行ってしまったのは、AIR好きとしては、本当に残念、悲しいですね…。自己に甘いナルシシズムと、自己に厳しい気高さは決して両立しません。Angel Beats!はナルシシズムの方向を完全に向いている作品で、麻枝准さんのシナリオがこっちの方向に行ってしまったことが、本当に残念です…。
創作のなかに説教をするシーンがあること自体は問題はないんですね。ただ、説教というのは、感情を動かすとき、二つの相反する方向に動かす力があるものだという理解が作り手には必要かと。先の天空の城ラピュタのシータのように、気高い者が気高く説教するならば、それは人々の心を感動・崇高へと動かします。逆に愚劣な者、ナルシシズムに染まった者が自己陶酔的に説教するならば、それに対して人々は馬鹿げた滑稽さしか感じ得ることはありません。
Angel Beats! は明らかに後者の方向性であり、ギャグコメディとしてやるならまだ分かるんですが、どうやら製作側は前者と後者の区別をつけていないように見えるのが、本当に、なんともはや…。シータや観鈴は気高い美しさを感じさせますが、Angel Beats! の登場人物達は皆、一切の美を全く感じさせない、滑稽なナルシストになってしまっているということを、製作側は今一度考えてみるべきではないかと思いますね…。客観的に見たときに、その行動が全く美しくない愚劣な登場人物達(ヒロインである筈のゆりとか、愚劣な振る舞いの数々が余りにも酷い)が、唐突に悲劇の登場人物のように振舞っても、それは悲劇のカリカチュア(戯画化)、滑稽な喜劇にしか見えないですよ…。
LASSブログ
http://lass.jp/diary/nicky200608.html
アリストテレスは、詩――物語とは再現である、と位置付けました。
第二章≪再現する対象の差異について≫では、物語上における人物の再現の点に言及しています。
「再現をする者は行為する人間を再現するのであるから、これらの行為する人々はすぐれた人間であるか、それとも劣った人間でなければならない。――というのは、人間の性格はたいていの場合この二つの性質のいずれかに相当するからである。じじつ、すべての人間の性格がわかれるのは、劣っているか、それともすぐれているのかという点においてである。――したがって行為する人々は、わたしたちよりすぐれた人間か、より劣った人間か、あるいはわたしたちのような人間であるか、のいずれかである」
基本的に劇――物語は叙事詩や悲劇ですので、主要なパーツは人間です。
アリストテレスは劣った人間を喜劇、すぐれた人間を悲劇や叙事詩に用いると簡明に書き残していますが、現代のわれわれにも親しみやすい要素でしょう。
われわれはその物語のどこで笑うのか、どの部分にたいして笑うのか? われわれはその物語のどこで哀れみを感じ、どの部分にたいして涙をこぼしてしまうのか? これを思いかえせば、非常にわかりやすい。
(主人公は)こうあるべきよりむしろ、『こういう主人公にならないように注意』という例を以下に挙げましょう。
・うじうじ悩んで優柔不断
・考え方が独善的
・ヒロインばかりをちやほやする
・過剰にギャグばかり言う
・現在の人格が生い立ちと遊離している
・行動や思考が場当たり的で不自然
傍から見ているだけならオモロイ人物ですが、自分がそうなりたいかと言われたら首を傾げてしまうものばかりでしょう。
(涼元悠一「ノベルゲームのシナリオ作成技法」)
世間でナルシシズムという言葉を口にするときに、多くの嘲笑が含まれるのは、たとえば、アラン・ドロンがナルシシストであっても少しも滑稽ではないが、客観的に見て全然美しくないものがナルシシズムに陥っているのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合っている。(中略)嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足ないし欠如のため、笑われるのだ。
(三島由紀夫「ナルシシズム論」「三島由紀夫文学論集2」より)
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