2010年03月28日 14:54

昨日更新できなくてごめんなさい。「世界を変えた100冊の本」読みました。面白かったです、お勧めです。

世界を変えた100冊の本

昨日更新できなくてごめんなさい。一昨日、寝ているときに首を寝違えたみたいで、昨日は首が痛くて、なるべく首を動かさないように、寝ていたので、PCに向かう時間が取れませんでした。今日は首の痛みがかなり引いたので更新します。

先ほど、マーティン・セイモア・スミス著「世界を変えた100冊の本」を読了。この本は、旧約聖書からスキナー「自由への挑戦 行動工学入門」まで、古今東西の有名な著作100冊を書評した本なのですが、書評本としてはめちゃくちゃ当たりの面白い本で、読んで正解でしたね。著者のマーティン・セイモア・スミスは、世界的な権威である有名な本の数々をばっさばっさと斬り捲るので、読んでいるこちらが、「この作者、狂信的読者の抗議を受けたりする心配大丈夫かな…」と感じてしまうほどです。

ただ、有名な本を斬り捲るといっても全体的に多大なユーモアがあり、読者に対して公平であろうとする誠実さも溢れているので、読んでいて不快な気分になることは、少なくとも僕はありませんでした。文章は非常に軽快でテンポの良い饒舌な文体でして(これは訳者さん達の力が大きいと思います、翻訳が良いです)、内容も含めて筒井康隆さんや山形浩生さんの文章を彷彿とさせます。とにかく面白い世界的名著書評でして、実にお勧めですね。訳者あとがきより引用致します。

世界の名著の紹介解説書としては、きわめて異色の本である。読んで頭に血の上る人もいれば、溜飲を下げる人もいるだろう。(中略)著者は100冊の本をタネに、その作者について、思うところを思うままに述べたというふうにも見られる。歯に衣着せぬとはまさにこのことで、気に入らない本や人(作者)に対しては罵詈讒謗を浴びせて憚らない。悪口を言うためにことさら取り上げたかと思われることもある。だからこそ面白いと言えるのではないか。

だいたいがこの手の紹介本(書評本)は、あたりさわりのない褒め言葉が連ねられているのが相場だろう。しかし本書はそれとは全くの対極。あたりさわりが大ありで、「あたりさわりがない」を「つまらない」とほぼ等価と考えれば、これはその逆で「面白い」ということになる(論理的にはいつも正しい言明ではないが、この場合は当たっていよう)。

著者のきらいなものははっきりしていて、官僚主義、それとやや関連して体制的宗教、そしてアメリカで猖獗をきわめているいわゆるPC、すなわち「ポリティカル・コレクトネス」といったところ。好意的に捉えているのはグノーシス、東洋思想などである。キリスト教についてはキリストをグノーシスと見て共感を寄せながら、使徒(教会)によって捻じ曲げられたと反発し、くだってカルヴィニズムにいたっては蛇蝎の如く忌み嫌う。しかし、人間の宗教心はことのほか重視していて、それに理解のない、あるいは目を向けない著者、著書は一刀両断斬って捨てる。(中略)

そしてその論述のおもしろさは保証できる。とにかく口が悪い。皮肉がきつい。そういうものを毛嫌いする向きはともかく、読みながら思わず噴き出してしまうこともしばしばである。作品は取り上げられていないが――それでいて作者だけをことさら引き合いに出して悪口を言うのが、この作者の面目躍如たるところで――トインビーやドーキンズを「ぼんくら」、文章は「高校生並み」とあけすけにけなしている本など、ほかには絶対に見当たるまい。(中略)

哲学思想から文学、自然科学にいたるまで、その目配りの広さは驚くに値しよう。たとえ独断と偏見に満ちていようと、これだけの対象を評価できる識見を持つことは並大抵ではない。ひるがえって日本を見て、こういった本を――しかもあたりさわりを敢えて辞さずに――書ける人がいったいいるだろうかと思わずにいられない。
(別宮貞徳。「世界を変えた100冊の本 訳者あとがき」より)

訳者あとがきでも書かれているように、まさに歯に衣着せぬ書評本で、非常に面白かったです。新聞に載っている、ただひたすら本を褒め称えている書評とは全く違う、本に対するプラスの評価もマイナスの評価も同時に書かれた、舌鋒鋭く一冊一冊を書評している書評本で、これぞまさに書評という感じで読んでいて実に楽しいです。最後に、この本の書評のなかで僕が一番好きな書評「意志と表象としての世界」から抜粋引用して本文をご紹介致しますね。

アルトゥール(若き日のショウペンハウアー)はパリに二年間滞在し、イギリスでもロンドン郊外のウィンブルドンの学校に数ヶ月通うことができた。ショウペンハウアーが示す嫌悪感の多く、特にヘーゲルに対する嫌悪感の原因を探る鍵は、この時代に培われた、プロイセンの国家主義と拡張主義に対する軽蔑の中に発見できる。この二つの主義はやがて二度の世界大戦の主な原因となるわけだが――ショーペンハウアーはこれらの主義が生み出す悪とは無縁だった。(中略)

代表作「意志と表象としての世界」の初版は驚くべき早さで、(ゲッティンゲンの大学で学位を取得した)このあとすぐ1818年にもう書き上げている。これは当時誰からも注目されなかったばかりか、1844年に大幅に加筆されて再版されたときも、やはり注目されなかった。しかし、幸いベルリン大学で講師の職を得る。1820年、ヘーゲルの向こうを張って、同じ時間帯に講義を始めたが、結果はみじめなものだった。しかしショーペンハウアーは、性格的にこれで自分の負けと認めないところがあり、フランスの小説家スタンダールと同じように、さしあたってはどんなに無視されようとも、(自分の意見を変えるのではなく)世間が気づいてくれるのを待つほうを選んだ。そして人生の最後の十年間でその目的を達するわけだが、おかげで20世紀の第一級の悪役の中に入らずにすんだ。一方、ヘーゲルの方はまさしく悪役になる。

ヘーゲルの命を奪った1831年のコレラの大流行のあと、ショーペンハウアーはフランクフルト=アムマインに居を定め、その後の人生を過す。ここでショーペンハウアーは多彩な女性遍歴を重ね、その絶倫に水を差されると、脾肉の嘆をかこつことしきりだったが、それは例外で、普段の生活はむしろ敬愛してやまないカントに負けないくらい規律正しかった。毎日『ロンドン・タイムズ』を読み、欠かさず散歩していた。(中略)

穏当なペシミストはみなそうだが、ショーペンハウアーも大いに生活を楽しんだ。よく食べ、人を楽しませ、旺盛な性欲を満たした。もちろん、さまざまな心配事や劣等感に悩まされもした。愛する母が生きているうちに和解できなかったことが、はっきりそう言われることはないが、心の傷になって、そのため心底恋愛にのめり込めなかったらしい。しかし愛犬だけは別で(特にプードルのアートマ、「宇宙の魂」を可愛がった)、トマス・ハーディのとびっきり優秀な(その割にはどやしつけられてばかりいた)犬、ウェセックスと同様、ショーペンハウアーの人生を語る上で欠かせない存在だった。(中略)

(ショーペンハウアーの考察の前提は)ショウペンハウアーが恐れ嫌う人間の残酷さに深く根ざしたものである。倫理学に関する論文のなかでこう述べている。人間の「第一の最も大きな性質」は、「巨大なエゴイズム」である。このエゴイズムは正義の境界線を、機会あらばいつでも越えようと狙っている。その「最悪の特徴」は、シャーデインフロイデ(翻訳できないドイツ語で、「人の不幸を喜ぶこと」を意味する)で、道義的には同情が必要とされているときに現われる。ショーペンハウアーはこれがひねくれた妬みであると鋭く見抜いた。自分にも他人にもその妬みがあると考えるのは我慢ならなかった。ショーペンハウアーの口調はしばしば辛辣で、嫌悪をあらわにさえする。そのうえ人の言い分を聞くより自分の意見を通すことの方が多い。しかし自分を人より偉く見せようとする人物では断じてない。(中略)

1848年にヨーロッパ各地で起こった革命が失敗に終わると、幻滅感が広がり、一般大衆の間でペシミズムが流行する。このこともあって、ショーペンハウアーが急に読まれるようになったのかもしれない。ショーペンハウアーが今たくさんの喜びと知的な栄養と苦しみからの救いを与えてくれるのは何とも皮肉な話だが、おそらくそれこそショーペンハウアー自身がずっと意図していたものだろう。

ショーペンハウアーは他人への同情(思いやり)に著しく欠けるとよく言われる。しかしそんなことはない。「忌み嫌って」いたに違いないと思われる女性から離れてなどいられなかったので、わざと途方もない論文を書いて、おもしろおかしく挑発するようなことを述べているにすぎない。ショーペンハウアーは苦しみを取り除くために遺産を残してくれた。犬を愛した。そして、内に秘めた同情はショーペンハウアーならではのものだった。
(マーティン・セイモア・スミス「世界を変えた100冊の本」)

ちなみにショーペンハウアーの本では「随感録」がとても面白いので、まずはこの本から読むのが僕的にはお勧めです。

参考作品(amazon)
世界を変えた100冊の本
随感録
存在と苦悩 (白水uブックス)
孤独と人生
意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈2〉 (中公クラシックス)
意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)

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