2010年02月07日 23:22
ハンス・ロット「ロット:交響曲第1番」。貧困生活苦とブラームスの侮辱により若くして狂死した悲劇の近代作曲家。
ロット:交響曲第1番
ハンス・ロットのアルバム「ロット:交響曲第1番」が1000円という破格の値段で売ってますね。このアルバムの海外盤は更に安く690円で売っていますが、この1000円の日本盤はハンス・ロット及びその音楽を解説した日本語ライナーノーツが、近代クラシック年代記までついた非常に詳細かつ充実した内容の読み応えがあるものですので、1000円の日本盤の方をお勧めしますね。交響曲第一番はハンス・ロットの最大の代表曲であり、若々しい希望と熱情に溢れた素晴らしい音楽です。僕は昔からよく聴きますね…。
この曲は、ワーグナー的な壮大な雄々しさと同時にマーラー的な極度の繊細さを併せ持つ、極めて近代的な交響曲の傑作です。彼は生前完全なる無名であり、貧困生活苦による心身の負担と、当時の大音楽家ブラームスから侮辱を受けたショックにより若くして発狂死しますが、その優れた音楽的才能は現代から彼の楽譜を見れば歴然たるものです。彼の数少ない理解者であった師匠のブルックナー、共に音楽を学んだ親友のマーラーからは激賞を受けていました。以下、ロットの音楽に対するブルックナーとマーラーの言葉です。
ハンス・ロットは、幼少時から優秀な音楽の才を発揮した子供でしたが、14歳の時に孤児となり、その後の短い生涯の間、貧困に苦しみます。14歳から修道院のオルガニストとして働きながらウィーン音楽院に通い、そこでブルックナーに習い、共に学ぶマーラーと親しい友人になります。彼はマーラーやポストマーラーを彷彿させる新しいクラシック曲を作曲しましたが、それはブルックナーとマーラーを除く当時の音楽家達にとって受け入れがたいものでした…。彼は勤め先の修道院で盗難の冤罪を掛けられて首になり(彼の死後、冤罪であったことが明らかになりました)、その後の就職先は見つからず、書いた曲もなかなか評価を得ることができず、生活苦と世間に評価されないことによる心身の負担に苦しむことになります…。
ウィーン音楽院を卒業した後、生活に困った22歳のロットは、国家奨学金の支給を頼むため、当時の大音楽家、奨学金審査員のブラームスの元を訪ねます。これはロットにとって最悪の致命的なことでした。ブラームスから散々な侮辱を受けたロッドは、正気を失い精神病院に収容され、そこで自作スコアの大半を破棄した後、狂死します。これほどの才能がこんなにあっけなく失われるとは無念です…。先にも書きました通りロットの音楽的才能は現代からそのスコアを見れば明らかであり、彼は非常に感動的な曲を若くして作曲しています。僕のこの文章はロットの交響曲第一番を聴きながら書いていますが、リズムが素晴らしく若々しい希望に満ちている、心を真に打つ実に優れた交響曲であると断言できる出来です。これほどの才能の持ち主が若くして不運の極みを辿り発狂死などと、この世界はとてつもなく理不尽なものであるとの僕の常々の思いを強めざるを得ません…。
なんといいますか…、この世界の運命というものに絶望するとしかいいようがないです…。僕は、この世界は美や善を阻む悪魔によって仕立て上げられているとしか感じられない不安に苛まれることがよくありますが、ハンス・ロットの生涯はまさにそれを裏付けるものであると思わざるを得ません…。
僕はブラームスに侮辱されて狂死したロットを思うと、モームの自伝エッセイ「サミング・アップ」を思い出しますね…。『有名な批評家達は適当でいい加減なことばかり書いているのを知っていた方が良い。(中略)類稀なセンスを持つ大芸術家が同時にどうしようもない悪癖を持った人間であることを知っていた方が良い』(モーム「サミング・アップ」)若い頃、駆け出しの頃の作家モームは有名批評家達の批評を真正直に受け取っていたが、その批評の数々は大作家となった今から思えばデタラメの限りであり、作品に対してマイナスにしかならなかったというモーム自身の回想、そしてワーグナーは芸術家としては優れているが、人間としてはどうしようもない奴だ、ということをモームが書いています。ワーグナーのような人間としてはどうしようもない奴でも大芸術家になれるのだから、だれでも大芸術家になれる可能性はあるとユーモアたっぷりに書いています。
ハンス・ロットも、ブラームスは真の音楽的天才たる大芸術家でありますが、同時に人間としては冷酷無比な人物であることを知っていれば良かったのですが…。モームは、批評家やその筋の権威のようなお偉いさん達が何を言おうと若い人達は気にするなよということを書いていて、大作家として名を成したモームがこういった文章を書いているというのは、救いでありますね…。
本アルバム「ロット:交響曲第1番」は、聴きやすく、極めて優れた交響曲の傑作です。交響曲以外の曲も優れたもので、全体的に極めてクオリティの高いアルバム、お勧めの作品ですね…。
参考作品(amazon)
ロット:交響曲第1番
サミング・アップ (岩波文庫)
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ハンス・ロットのアルバム「ロット:交響曲第1番」が1000円という破格の値段で売ってますね。このアルバムの海外盤は更に安く690円で売っていますが、この1000円の日本盤はハンス・ロット及びその音楽を解説した日本語ライナーノーツが、近代クラシック年代記までついた非常に詳細かつ充実した内容の読み応えがあるものですので、1000円の日本盤の方をお勧めしますね。交響曲第一番はハンス・ロットの最大の代表曲であり、若々しい希望と熱情に溢れた素晴らしい音楽です。僕は昔からよく聴きますね…。
この曲は、ワーグナー的な壮大な雄々しさと同時にマーラー的な極度の繊細さを併せ持つ、極めて近代的な交響曲の傑作です。彼は生前完全なる無名であり、貧困生活苦による心身の負担と、当時の大音楽家ブラームスから侮辱を受けたショックにより若くして発狂死しますが、その優れた音楽的才能は現代から彼の楽譜を見れば歴然たるものです。彼の数少ない理解者であった師匠のブルックナー、共に音楽を学んだ親友のマーラーからは激賞を受けていました。以下、ロットの音楽に対するブルックナーとマーラーの言葉です。
諸君、笑うのはよしたまえ。君達は今後、この人物が作り出す素晴らしい音楽を聴くことになるのだから。
(アントン・ブルックナー)
彼を失ったことで音楽がこうむった損失ははかり知れない。彼が20歳の時に書いたこの最初の交響曲でも、その天才ぶりはすでにこんなにも高く羽ばたいている。僕が見るところ、この作品は――誇張ではなく――彼を新しい交響曲の確立者にするほどのものだ。(中略)
彼は僕と心情的にとても近いので、彼と僕とは、同じ土から生まれ、同じ空気に育てられた同じ木の2つの果実のような気がする。僕は彼から非常に多くを学ぶことができたはずだし、たぶん僕たち2人が揃えば、この新しい音楽の時代の中身を相当な程度に汲み尽くしていただろう。
(グスタフ・マーラー)
ハンス・ロットは、幼少時から優秀な音楽の才を発揮した子供でしたが、14歳の時に孤児となり、その後の短い生涯の間、貧困に苦しみます。14歳から修道院のオルガニストとして働きながらウィーン音楽院に通い、そこでブルックナーに習い、共に学ぶマーラーと親しい友人になります。彼はマーラーやポストマーラーを彷彿させる新しいクラシック曲を作曲しましたが、それはブルックナーとマーラーを除く当時の音楽家達にとって受け入れがたいものでした…。彼は勤め先の修道院で盗難の冤罪を掛けられて首になり(彼の死後、冤罪であったことが明らかになりました)、その後の就職先は見つからず、書いた曲もなかなか評価を得ることができず、生活苦と世間に評価されないことによる心身の負担に苦しむことになります…。
もし、ブラームス、ゴルトマルク、ハンスリック、リヒターらからなる音楽院の審査委員会が、当時僕の「嘆きの歌」に600グルデンのベートーヴェン賞を与えていたら、僕の生涯は違った方向に進んでいただろう。――その時僕は、「リューベツァール」の仕事をしていた。――僕はライバッハに行かなくてもよかっただろうし、たぶんこの忌まわしいオペラの経歴全体を免れていただろう。しかし、ヘルツフェルト氏が作曲の一等賞をとり、ロットと僕は何ももらえなかった。ロットは絶望し、それからすぐに気が狂って死んだ。そして僕は、地獄のようなオペラの生活に運命付けられたのだ。
(グスタフ・マーラー)
ウィーン音楽院を卒業した後、生活に困った22歳のロットは、国家奨学金の支給を頼むため、当時の大音楽家、奨学金審査員のブラームスの元を訪ねます。これはロットにとって最悪の致命的なことでした。ブラームスから散々な侮辱を受けたロッドは、正気を失い精神病院に収容され、そこで自作スコアの大半を破棄した後、狂死します。これほどの才能がこんなにあっけなく失われるとは無念です…。先にも書きました通りロットの音楽的才能は現代からそのスコアを見れば明らかであり、彼は非常に感動的な曲を若くして作曲しています。僕のこの文章はロットの交響曲第一番を聴きながら書いていますが、リズムが素晴らしく若々しい希望に満ちている、心を真に打つ実に優れた交響曲であると断言できる出来です。これほどの才能の持ち主が若くして不運の極みを辿り発狂死などと、この世界はとてつもなく理不尽なものであるとの僕の常々の思いを強めざるを得ません…。
ロットの経済状況は悪化の一途を辿っており、作品(スコア)を出版すれば(奨学金が得られる、曲が演奏されるなどして)そうした状況も好転するのではないかという望みを抱いていた。ロットは定職についていなかったから定期的な収入もなく、音楽の個人授業だけでは日々の生活を賄うこともできなかった。1879年以降、ロットは友人のヨーゼフ・ゼーミュラーからの援助に頼って生活するほかなかった。(中略)
奨学金についても、ロットは積極的に行動した。奨学金の審査を行う人物のうち、誰が自分の才能を認めてくれるかを見極めようとした。「国家奨学金の審査員は、ブラームスとハンスリック、それにゴルトマルクだ」と、9月9日にゼーミュラーに書き送っている。彼は文部省を訪れ、それぞれの審査員に自己紹介したいという希望を話している。9月16日のレーヴィ宛ての手紙では、「文部省ではすべて順調に進んでいて、奨学金の見通しも明るいよ。とにかく明日はハンスリックとブラームスに会うんだ」と書いている。
ロットがブラームスを訪問したのは、この手紙によれば9月17日のことであったようだが、この訪問はロットにとって自己の破滅を意味した。この訪問での2人のやりとりに対して、逸話的なものしか残されていないが、ゼーミュラーの証言は事実に最も近いものだと思われる。ブラームスはロットに対してこう言ったらしい――「この作品には美しい部分は数多くあるが、それと同じくらいナンセンスな部分も含まれている。だから、美しい部分は君自身が作曲したんじゃないんだろう」。
数週間後、おそらくは1880年10月22日のこと、ロットはついにミュールーズの仕事を受けざるを得なくなり、ウィーンからミュールーズへ向かう列車に乗っていた。同乗した旅行者が煙草に火を付けようとしたとき、ロットはピストルを突きつけてやめるように言った。その時ロットは、ブラームスの仕業で列車がダイナマイトで一杯になっているという妄想を抱いていた。
10月23日、ロットはウィーン総合病院の精神科に収容された。「幻覚性の被害妄想による精神障害」と診断され、1881年2月16日には、低地オーストリアの精神病院に移送された。1884年6月25日、まだ26歳に満たないロットは、ここで世を去った。
その間、1881年3月15日付けの低地オーストリア知事からの手紙で――ブラームスの反対があったにもかかわらず――、(ブラームスに見せて侮辱された交響曲第一番が審査委員会でハンスリックとゴルトマルクに評価され)ロットに文部省から奨学金が授与されることになったのは、皮肉な運命としか言いようがない。
(ベアト・ハーゲルス。ロット:交響曲第1番ライナーノーツより)
なんといいますか…、この世界の運命というものに絶望するとしかいいようがないです…。僕は、この世界は美や善を阻む悪魔によって仕立て上げられているとしか感じられない不安に苛まれることがよくありますが、ハンス・ロットの生涯はまさにそれを裏付けるものであると思わざるを得ません…。
僕はブラームスに侮辱されて狂死したロットを思うと、モームの自伝エッセイ「サミング・アップ」を思い出しますね…。『有名な批評家達は適当でいい加減なことばかり書いているのを知っていた方が良い。(中略)類稀なセンスを持つ大芸術家が同時にどうしようもない悪癖を持った人間であることを知っていた方が良い』(モーム「サミング・アップ」)若い頃、駆け出しの頃の作家モームは有名批評家達の批評を真正直に受け取っていたが、その批評の数々は大作家となった今から思えばデタラメの限りであり、作品に対してマイナスにしかならなかったというモーム自身の回想、そしてワーグナーは芸術家としては優れているが、人間としてはどうしようもない奴だ、ということをモームが書いています。ワーグナーのような人間としてはどうしようもない奴でも大芸術家になれるのだから、だれでも大芸術家になれる可能性はあるとユーモアたっぷりに書いています。
ハンス・ロットも、ブラームスは真の音楽的天才たる大芸術家でありますが、同時に人間としては冷酷無比な人物であることを知っていれば良かったのですが…。モームは、批評家やその筋の権威のようなお偉いさん達が何を言おうと若い人達は気にするなよということを書いていて、大作家として名を成したモームがこういった文章を書いているというのは、救いでありますね…。
本アルバム「ロット:交響曲第1番」は、聴きやすく、極めて優れた交響曲の傑作です。交響曲以外の曲も優れたもので、全体的に極めてクオリティの高いアルバム、お勧めの作品ですね…。
参考作品(amazon)
ロット:交響曲第1番
サミング・アップ (岩波文庫)
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