ラッセル幸福論 (岩波文庫)
以前、何度か述べたツイッターについてですが、ツイッターの構造を僕よりもずっと分かりやすく解説している優れたエントリを見つけましたのでご紹介致します。日比嘉高研究室さんの「ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる」です。ツイッターをやっていない僕に比べると、ツイッターを実際にやっているお方の分析は流石という感じですね…。
僕はここまで的確に分析していた訳ではないのですが、ツイッターのシステムを見て直感的に危険だなと思いました。ツイッターは数万〜数百万という多数のフォローを持つ少数の有名人と、数十〜数千程度のフォローのみの大勢の無名人が、ピラミッド型の構造で繋がっていて、メッセージはピラミッドの上から下へのみ流れて行き、下から上へはほとんど流れない。少数の有名人の言葉は大勢の無名人に届くけれど、大勢の無名人の言葉は少数の有名人にほとんど届かない構造になっている。そして、これがツイッターの最も危ないと思うところですが、本当は上から下への単方向であるにも関わらず、上と下が双方向で繋がっているような錯覚を与えている。この錯覚を与える点で、単方向であることがはっきりしているテレビより危険だと感じました。
ツイッターのシステムと言うのは、結局は有名人がリアルタイム性の高い個人テレビ(ラジオ)局を持ってそれで延々と放送を行っているという仕組みなんですが、大勢の人々がこれを相互通信だと錯覚している。結果、ただひたすら有名人に影響を与えられるだけの受動的な視聴者になっているにも関わらず、それを意識せず、有名人にひたすら影響される。これは気をつけた方が良いことだと思いますね…。
強い単方向性を持つテレビの場合は、自分は受動的な視聴者であるという認識があるので、それがテレビに対する抑制的な姿勢として機能します。インターネットのメールやチャットは必ず届く1対1の双方向性を持ちます。ホームページやブログは一対多で手紙を公開しているような弱い双方向性を持っています。ツイッターはテレビとほぼ同じ強い単方向性ですが、チャットに近い双方向性の錯覚と、テレビやラジオの生放送時のようなリアルタイムで繋がっているという幻想性があり、テレビ視聴の時に働く抑制的な姿勢が働きにくい。結果、『教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。』と言うことは極めて起こりやすくなっていると思います。
ツイッターはごく少数の有名人の為の個人テレビ(ラジオ)局としての機能を持ち、ツイッターをやっている人々の多くはそこに視聴者としてアクセスしているのだという意識を、きちんと持つようにした方がいいと思いますね…。ツイッターに対しては、テレビと同じく、没入しすぎない抑制的な姿勢でいることが大切だと思います。
そして何よりも、僕は、多くの人間には、有名人の生活を延々とリアルタイムに見続けることよりも、もっと自分自身にとって喜びを見い出して世界と向き合い善、美、愛を感じることのできる、やりがいのあることは沢山あると思うのですね…。ささやかな趣味、猫を可愛がったりする日々の生活、自ら抱く理想まで、それらは様々に沢山あると思っています…。僕自身が猫を飼っていて、音楽と読書とアニメなどのオタク趣味が好きでして、何よりも、生活に困っているところをamazonギフト券を贈って下さる、アフィリエイトで購入して下さる、穏やかで優しいご善意で生活を助けて頂き、人間の世界には、ちょっと恥ずかしい言葉ですが、「愛」というものがあると信じられて、深く感謝しておりますゆえ…。この世界には、自らと他者の行為のうちに善きこと、美を感じることが、何より尊くやりがいあることとして様々に存在すると思います。
参考作品(amazon)
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
福田恆存評論集〈第2卷〉藝術とはなにか
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以前、何度か述べたツイッターについてですが、ツイッターの構造を僕よりもずっと分かりやすく解説している優れたエントリを見つけましたのでご紹介致します。日比嘉高研究室さんの「ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる」です。ツイッターをやっていない僕に比べると、ツイッターを実際にやっているお方の分析は流石という感じですね…。
ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20100201/1265041211
「返信」は届かない
ツイッターのもう一つの側面は、多少誇張していえば、教祖/信者の構造を再生産し、強化するというところにあると感じている。ツイッターの利用者への訴求力の一つに、有名人の個人的なつぶやきが読める、ということがある。広瀬香美がなんとかとか、バラク・オバマがなんとかとか、鳩山由紀夫です散歩しましたとか、そういうのが同時性の感覚とともに手元に届く楽しみである。そして「返信」できる。
だがその「返信」は本当に「届く」のだろうか。私がハーバーマスの「つぶやき」に「返信」したとして、ハーバーマスのもとに私の反応は「届く」だろうか。仕組みとしては「届く」。ハーバーマスは私をフォローしていないからそのままでは届かないが、私が私の返信の中に@JHabermasと埋め込み、彼が自分の「ホーム」にある「@JHabermas」をクリックすれば、私の「返信」は彼の見るモニタ上に現れるはずである。
だがその可能性は、ゼロとは言わないが限りなく低いだろう。ハーバーマスは「フォローしている人」0というまさに極限的な例だが、フォロワーが集中している著名人は、「フォローしている人」に比べ「フォローされている人」の数が圧倒的に多いのが普通である。後者の数が200、300を越えたあたりから、一般フォロワーの「返信」は現実的には届かなくなるのではないかと思う。4桁になり、5桁になると、ほぼ見ず知らずの「有名人」に何かを届けられる確率は激減する。そして、ツイッターはこのとき、著名人=教祖のつぶやきを、一般フォロワー=信者がまちうける、というトップダウン型の相貌を現す。
教祖は「お立ち台」に上る
このことは、書き手の側の意識からもたぶん言える。私のフォロワーは60数名という零細小売業状態なので、教祖の気持ちは想像するしかないが、あまり外していない気がする(たぶん)。 ツイッターの書き手は、フォロワーの数を相当気にしている。一人増える度に「増えました」とメールが届くので、当たり前である。そして、ツイートを投稿するとき、その言葉がそれらのフォロワーのもとに、リアルタイムでダイレクトに届いていくことを強く意識する。数千人〜数万人の読者のところに直接言葉が届く場において、何かを発言する、書くという行為を想像してみるといい。そこにはある種の陶酔をともなった高揚があるはずである。
私がフォローしている著名人の中には、何人かそういう場に身を置いてほぼ毎日、毎晩のように発言と返信を行っている人たちがいる。最初ツイッターに慣れない間は、彼らはひたすら本当に一人で「つぶやいている」のだ奇特なことだと思っていたが、すぐにそうではないことに気がついた。何人かのフォロワーたち(私は彼らをフォローしていないので私からは見えない)に、個人的に、あるいはいくつかまとめて返信を投げつつ、また新しくツイートしつつ、という形で、長時間の持続的投稿を行っている、というのが実態のようだ。
私には、この風景は、「お立ち台」に見える。特定の存在がオーディエンスのアテンションを惹きつつ舞台にのぼり、周囲のレスポンスを受けながら、パフォーマンスをしてみせる。パフォーマーはオーディエンスの反応を受けて演技を変える、という意味においてそれは双方向的だが、両者の関係性はフラットではない。
つぶやきを浴びると
人は、ある人の姿や言葉、身体に接触する回数が増えると、その人についての関心度が上がり、好意的な感情を持っていればその好意は増大する傾向がある。ここ二週間ほど、かなりツイッターにつきあってきた私は、いま述べた大量ツイートをする著名人たちの言葉をうんざりするほど(失礼)浴び続けた。また、大量ではないけれど、ぼそぼそとした他の著名人たちのつぶやきを聞いてきた。どちらも、ツイッター以前にはありえなかった著名人への接し方である。面白かった。が、その結果、私の彼らへの関心度は、確実に上昇してしまった。あぶないことだ。
自分が好きでフォローしているわけだから、あぶないもなにもなかろう、というのが正しい反論だが、ツイッターには、こういう面があるということを書き留めておきたい。これって、あぶない、と。
念のため補足すると、私は、ツイッターがフラットではなく教祖/信者のコミュニケーションだ、ということを言いたいのではない。ツイッターというシステムは、フラットな関係性を築くツールにもなりうるが、同時に同じシステムの上で、教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。
僕はここまで的確に分析していた訳ではないのですが、ツイッターのシステムを見て直感的に危険だなと思いました。ツイッターは数万〜数百万という多数のフォローを持つ少数の有名人と、数十〜数千程度のフォローのみの大勢の無名人が、ピラミッド型の構造で繋がっていて、メッセージはピラミッドの上から下へのみ流れて行き、下から上へはほとんど流れない。少数の有名人の言葉は大勢の無名人に届くけれど、大勢の無名人の言葉は少数の有名人にほとんど届かない構造になっている。そして、これがツイッターの最も危ないと思うところですが、本当は上から下への単方向であるにも関わらず、上と下が双方向で繋がっているような錯覚を与えている。この錯覚を与える点で、単方向であることがはっきりしているテレビより危険だと感じました。
ツイッターのシステムと言うのは、結局は有名人がリアルタイム性の高い個人テレビ(ラジオ)局を持ってそれで延々と放送を行っているという仕組みなんですが、大勢の人々がこれを相互通信だと錯覚している。結果、ただひたすら有名人に影響を与えられるだけの受動的な視聴者になっているにも関わらず、それを意識せず、有名人にひたすら影響される。これは気をつけた方が良いことだと思いますね…。
強い単方向性を持つテレビの場合は、自分は受動的な視聴者であるという認識があるので、それがテレビに対する抑制的な姿勢として機能します。インターネットのメールやチャットは必ず届く1対1の双方向性を持ちます。ホームページやブログは一対多で手紙を公開しているような弱い双方向性を持っています。ツイッターはテレビとほぼ同じ強い単方向性ですが、チャットに近い双方向性の錯覚と、テレビやラジオの生放送時のようなリアルタイムで繋がっているという幻想性があり、テレビ視聴の時に働く抑制的な姿勢が働きにくい。結果、『教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。』と言うことは極めて起こりやすくなっていると思います。
ツイッターはごく少数の有名人の為の個人テレビ(ラジオ)局としての機能を持ち、ツイッターをやっている人々の多くはそこに視聴者としてアクセスしているのだという意識を、きちんと持つようにした方がいいと思いますね…。ツイッターに対しては、テレビと同じく、没入しすぎない抑制的な姿勢でいることが大切だと思います。
そして何よりも、僕は、多くの人間には、有名人の生活を延々とリアルタイムに見続けることよりも、もっと自分自身にとって喜びを見い出して世界と向き合い善、美、愛を感じることのできる、やりがいのあることは沢山あると思うのですね…。ささやかな趣味、猫を可愛がったりする日々の生活、自ら抱く理想まで、それらは様々に沢山あると思っています…。僕自身が猫を飼っていて、音楽と読書とアニメなどのオタク趣味が好きでして、何よりも、生活に困っているところをamazonギフト券を贈って下さる、アフィリエイトで購入して下さる、穏やかで優しいご善意で生活を助けて頂き、人間の世界には、ちょっと恥ずかしい言葉ですが、「愛」というものがあると信じられて、深く感謝しておりますゆえ…。この世界には、自らと他者の行為のうちに善きこと、美を感じることが、何より尊くやりがいあることとして様々に存在すると思います。
善き行為を為しつつ、それが善であることを楽しみ、美しきものを眺めながら、それが美しきものであることを楽しみたいのだ。自意識という言葉を僕は好まぬ。僕の目論んでいることは精神の自律性であり、物質のメカニズムに対する精神のメカニズムをこしらえあげることである。いいかえれば、物質のメカニズムを楽しむにはこれと一定の距離を保たねばならぬ。
(「福田恆存評論集〈第2卷〉藝術とはなにか」より)
西欧の最高の教育を受けた若い男女に見いだされるような冷笑的な態度は、安楽さが無力感と結びついて生じるものだ。無力感は、人々にやりがいのあるものは何一つないと感じさせ、安楽さは、こうした感情の苦しさをやっと耐えられるものにする。(中略)
(何かに情熱を傾ける人は)彼は無力でもないし、安楽でもないので、改革者または革命家にはなっても、冷笑家にはならない。(中略)忘れもしない、1人の中国人の青年が私の学校を訪ねたことがあった。彼は帰国して、同じような学校を中国の反動的な地域に設立しようとしていた。彼は、その結果、首を刎ねられることになるのを覚悟していた。それでいて、なにかうらやましいとしか言えないような静謐な幸福に浸かっていた。(中略)
仕事の喜びは、(その仕事が好きで、その仕事によって)何か特技を伸ばせる人なら誰にだって感じられる。ただし、大向こうをうならせることなど考えずに、己の技術を生かすことで満足を得ることができれば、の話である。私の知っている人で、ごく幼いときに両足が使えなくなったのに、長い生涯を通じてずっと平静で幸福であった男がいる。彼がこんな幸福を掴んだのは、薔薇の胴枯れ病に関する五冊の本を書いたからであった。この方面で彼は一流の専門家だと私はいつも理解していた。私は残念ながら貝類研究者を多数知っている訳ではないが、私の知っている人たちから推して、貝類の研究はこれに従事する人々に満足をもたらすものであることをかねてから承知している。私のかつての知り合いに、世界一の植字の名人がいたが、彼は、美しい活字を造り出すことに専念している全ての人の間で引っ張りだこになっていた。彼が喜びを得たのは、軽々しく人を尊敬しない人から本当に尊敬されたということよりも、むしろ、自分の技術を行使することに生き生きとした愉悦をおぼえたからであった。(中略)
多くの人々にとって、主義主張を信じることは幸福の源泉である。私が考えているのは、圧政の下であえぐ国々の革命家や社会主義者や国家主義者などののみのことではない。同時に、多くの、もっとささやかな信念のことを考えているのである。私の知っている人々で、イギリス人はイスラエルの失われた十支族であると信じていた人たちはほとんど例外なく幸福だったし、一方、イギリス人はエフライムとマナセの支族にほかならないと信じていた人たちときたら、その至福に際限がなかった。私は、読者にこの種の信条を奉じるように言っているのではない。というのは、私は、自分には誤っていると思われるような信念に基いた幸福を擁護することはとてもできないからだ。(中略)しかし、いささかも奇異でない主義主張を見つけることはたやすいし、そうした主義主張に本物の関心を寄せている人々は、人生はむなしいという感情への完全な解毒剤を与えられていることになる。
つつましい主義主張に献身することとあまり違わないのは、趣味に熱中することだ。現存の数学者の中で最も高名な1人は、自分の時間を数学と切手収集に二分している。たぶん、数学の研究が行き詰まったようなとき、切手収集が慰めになるのだと思われる。切手収集でいやせる悲しみは、なにも数の理論の命題を証明する困難さのみではないし、また収集できるのは切手のみではない。古い陶器、嗅ぎ煙草入れ、ローマのコイン、矢じり、石器などに思いを馳せるとき、どれほど広大な陶酔の世界が想像の眼に開けてくることか、考えてみるがいい。(中略)(仕事とは関係のない趣味は子供のものであって、大人のするべきことではないという考え方があるが)これは完全な間違いだ。他人に害を及ぼさない楽しみは、どんなものでも尊重されるべきである。私は川(著者のラッセルは川下りが趣味)を収集している。(中略)
私は、アメリカの一流の文学者に会ったときのことを覚えている。私は作品から、この人はふさぎの虫にとりつかれているのだと思っていた。ところが、たまたま、ちょうどそのとき、野球の最も決定的な結果がラジオから流れてきた。彼は、私も、文学も、そのほかこの世の生活の悲しみのことごとくを忘れてしまった。そして、肩入れしている球団が勝利を得たとき、喜びのあまり歓声をあげたものだ。それからというもの、私は彼の作品を読んでも、登場人物たちの不幸に気がめいらずに済むようになった。(中略)
根本的な幸福は、ほかの何にもまして、人や物に対する友好的な関心というものに依存しているのである。人に対する友好的な関心は愛情のひとつの形であるが、貪欲で独占欲の強い、常に強い反応を求める形はそうではない。後者の形は、まま不幸の源になる。幸福に寄与する愛情は、人々を観察することを好み、その個々の特徴に喜びを見い出すたぐいの愛情である。接触するようになった人々の興味や楽しみが存分に生かされる機会を与えたいと願うのみで、その人たちを左右する力を獲得したいとか、その人たちの熱烈な称賛を得たいとか願わないたぐいの愛情である。他人に対して真にこうした態度をとれる人は、幸福の源になるだろうし、相互的な親切の受け手にもなるだろう。彼の他人との関係は浅いときも深いときも、彼の興味と愛情の双方を満足させるだろう。
(ラッセル「幸福論」)
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