2010年01月31日 19:45

鳥賀陽弘道「Jポップとは何か」読了。音楽の可能性を奪うJポップ複合体(電通・テレビ局)、タイアップの脅威。

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)
A year

ジャーナリスト鳥賀陽弘道さんがJポップを徹底的に分析した力作「Jポップとは何か」読了。電通・テレビ局が主導するJポップが政治と結びつきながら活動し、如何に音楽シーンの可能性を実際に狭めているかが詳細に書かれており、洋楽・クラシック・現代音楽などを中心に聴いている僕の知らない驚くべきJポップ(日本のポピュラー音楽シーン)の実態が明らかにされ、とても驚きましたね…。一刻も早くJポップは衰退するべき、Jポップ複合体(テレビ曲・電通・レコード会社や音楽プロダクション)から、音楽を聴く一般の人々の手に音楽自身が取り戻されるべきだとの思いを心から強く致しました。

非常に簡略化してご説明すると、均一的で個性を持たず一切の当たり障りのない、わざと平凡・下手に作ってある音楽的可能性を失った歌=Jポップで日本国内のみの音楽シーンを囲い込む戦略を、巨大広告代理店(電通)がテレビ局を使って行い(タイアップ)、その企みは大成功、そのことにより音楽の多様な可能性を収奪され失い続けてきたのが、これまでの日本の音楽であるということですね…。読んでいて愕然とする衝撃を受けました。Jポップ複合体(電通・テレビ局・ポピュラー音楽レコード会社と芸能プロダクション)により日本の音楽シーンがここまで酷い状態にあることを、これまで知りませんでした…。僕はもっぱらクラシック、洋楽、現代音楽、インスト曲しか聴かず、カラオケに行くこともないので、Jポップという悪魔的としか言い様のない収奪と抑圧のシステムにより、日本の音楽がここまでの惨状になっていることを始めて知り、ショックですね…。以下、本書より引用してご紹介します。

日本のタイアップで結び付けられるのは、音楽とCMあるいはドラマである。(中略)この手法(タイアップ)によって、ポピュラー音楽が、テレビという極めて影響力の大きいマスメディアの力を借りることができるようになった。(中略)筆者はこの「ポピュラー音楽産業」「広告代理店」「テレビ」の三産業を、人材や予算、情報を交流させるひとまとまりの産業体と考え、「Jポップ産業複合体」と呼んでいる。(中略)ビクターエンタテインメント社の幹部だった生明俊夫・広島経済大教授は、『ポピュラー音楽は誰が作るのか』の中で、レコード会社、広告代理店、スポンサーといった「Jポップ産業複合体」の「合議」で音楽がつくられていく様子を詳しく紹介している。

「テレビドラマやテレビCMで使われる曲、いわゆるタイアップ曲が作られる場合も、そこにはさらに広告代理店やその広告主=スポンサーなども含む広範囲の関係者によるプロジェクトチームが形成される。現在のタイアップでは音楽はそのタイアップのために新しく作られる。その音楽はテレビの映像とほぼ同時進行で製作されることがほとんどである。そして音楽は映像のイメージにあったものが要求される」

こうした広告産業との垣根の低さは、日本のポピュラー音楽産業の大きな特徴である。アメリカでは、歌手やバンドがテレビCMに出演したり、楽曲を書きおろしたりすることは、「アーティストの品格を落とす」としてむしろ敬遠されるからである。まず間違いなく批評家から手ひどく批判される。だから、欧米のミュージシャンの中には、CMへの曲提供や出演を地元ではせずに、日本に限っているという例もある。
(鳥賀陽弘道「Jポップとは何か」)

僕は、ピーター・グリーナウェイ(映画監督)とマイケル・ナイマン(作曲家)のように、製作者とアーティスト・作曲家の信頼関係を基盤とした上でのアーティスト・作曲家の自由な独自性として曲があるのかと思っていたんですね(グリーナウェイ&ナイマンは、映画における最も優れた監督&作曲家コンビ、最後は音楽の方向性の相違で衝突しコンビ解消)。しかし、Jポップは全然そうではなく、ただただ利益のみのために広告代理店(電通)が介入してわざと当たり障りをなくした平凡な歌を作らせ、それを広範囲に売り出しているんですね…。歌詞作りに自由はなく、アーティストが歌を作っているのではなく、電通が歌を作っているとか、ショックです…。更に引用を続けます。

タイアップは、ポピュラー音楽にどんな影響を残したのか。第一に、少しでも物議をかもしそうな曲は極端に回避する傾向を、音楽産業が強めた。(中略)企業経営者(スポンサー)がテレビで大量に露出される音楽(タイアップ曲)を決めるということである。経営者はあくまで企業経営の専門家であって、音楽を判別するセンスや知識、経験は期待できない。企業イメージを損なうような音楽あるいはミュージシャンは敬遠される。(中略)広告代理店はこの辺の事情をよく承知しているから、そういった企業が嫌がりそうな作風、あるいは「何かやらかしそうな」歌手やバンドはキャスティングの対象から最初から外している。レコード会社もこうした力学を承知の上で、楽曲や歌手を開発する。結局、タイアップの力を借りて売ろうとするなら、曲や歌い手を「無難」な線にまとめようとする力学が各所で働く。

これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生生しい社会事象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。

例えば、阪神大震災の被災者のような社会的弱者を励ます歌ですら、排除された。95年、被災者を訪問し演奏を聴かせるボランティア活動を続けていたバンド、ソウルフラワー・ユニオンが、関東大震災の直後に流行した「復興節」をソニー・ミュージックエンタテインメントから出そうとしたことがある。「復興節」は、当時の被災者の明るさとたくましさを歌った曲だ。ソウルフラワーはその個性はそのままに、歌詞の一部を変更した「阪神大震災バージョン」をつくった。被災者には非常に評判のいい曲だったが、ソニーは発売を認めなかった。

「震災をネタに浮かれていると取られる可能性が1%でもある限り、発売はできない」というのが、筆者の取材に対するソニーの答えだった。復興節は(ソニーなどのメジャーレコード会社と無関係な)インディーズCDとして発売され、三万枚が売れた。

こうした規制のプロセスには、外部からの圧力や妨害どころか、明文化されたルールさえ存在しない。「復興節」の例のように発売元の(メジャー)レコード会社が先読みして自ら「検閲」してしまうのが特徴だ。こうした「自己検閲」傾向は、日本のメジャーレコード会社はどこも共通している。そのうちにメジャーレコード会社の出す曲や歌い手は「無難」で「物議をかもさない」という点ではどれも大同小異になっていった。(中略)

こうした現象が意味するのは、広告の表現基準がポピュラー音楽に持ち込まれた、ということである。広告と同じ内容基準でポピュラー音楽が作られるようになったのだ。広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため「社会のマジョリティ(多数派)が合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気づかないような内容を歌にして世に出したりできいる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。(中略)

タイアップによって表現のレンジを狭めることにより、幅広い表現の自由を追求するタイプの音楽家は冷遇されがちになる。またタイアップがつかないような歌手・バンドであっても、レコード会社の自主規制基準(検閲)だけは適応されるため、表現の自由度や多様性はますます損なわれる。

筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には賛同しない。しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない(当たり障りのない平凡な曲しか作ることを許されない)。広告(タイアップ)が持つ表現上の制限を受け入れることを覚悟しなくてはならない。これは、広告が表現の自由に敵対するという意味ではない。前述のように、広告表現と音楽表現は、そもそも最終目的がまったく違う、というに過ぎない。

『メガヒットか無名かの二極構造』第二にタイアップは、大物と中堅・新人の人気の差を一層拡大し、固定してしまった。企業は自社イメージや広告予算をリスクにさらすことは好まない。また無名の新人の音楽をCMにつけるよりは、すでに名の売れた大物を好む傾向がある。(中略)(タイアップ戦略により)中堅層がすっぽり抜けてしまい、「少数のメガヒット組か多数の無名組か、どちらかしかいない」という「二極分解」が起きた。例えば01年のエイベックス社の売り上げの四割は浜崎あゆみ、東芝EMIの売り上げのやはり四割は宇多田ヒカルに依存している。(中略)これは、ヒットを放つのはいつも似たような顔ぶれ、ということである。ここでも多様性は損なわれている。(中略)

第三にタイアップは、楽曲が送り出されるサイクルをどんどん短くした。(中略)タイアップによる楽曲のヒットとは、つまるところ、テレビで曲を耳にした人々がCDを買ったということだ。テレビでのオンエアが終われば売れ行きが低下するのは自然の理である。(中略)

日本という国は、音楽産業としてはどんな形をしているのだろうか。(中略)宇多田ヒカルの例でもわかるように、欧米でデビューした、コンサートをした、CDを録音したなど「海外で活躍するJポップ」のファンタジーがマスメディアによく登場する。では現実にはJポップはどれくらいインターナショナルになったのだろうか。これまで何度か書いたとおり「欧米と肩を並べるポピュラー音楽」がJポップのファンタジー(電通が行っている国内向けイメージ戦略)であるだけに気になる。

結論を先に言えば、日本は世界第二位の巨大な音楽消費地でありながら、そのポピュラー音楽の日本国外での売り上げやオンエアはゼロに等しい。つまりポピュラー音楽を消費するばかりで、世界へ発信することがほとんどない。(中略)

日本の音楽が世界でどれくらい流通しているのか、もっとも正確に把握する方法は、著作権使用料の流れを辿ることである。(中略)(03年にJASRACが海外から徴収した額は)わずか5億5483万円。全体の徴収料のうち、たった0.5%でしかない。これは何を意味するかというと「日本人が作る音楽の99.5%は日本国内で消費される。日本国外で消費されるのはわずか0.5%でしかないということだ。(中略)

しかも、海外で消費される日本の音楽の大半を占めるのはJポップではなく、アニメのテーマソングや挿入歌、BGMである。03年だと、1位のポケットモンスターBGMだけで海外からの送金のなんと7割を占めるほか、2位のドラゴンボール以下、10位まで全てアニメ音楽である。(中略)

(Jポップは海外では全く評価されていないにも関わらず)日本の音楽産業が(宇多田ヒカルの海外活動報道など)こうしたマスコミ上の(実態を伴わない)「海外進出」を国内向けの宣伝に使っている事実は心に留めておくべきだろう。(中略)音楽業界には「アーティスト対策」という隠語がある。「歌手やバンドのご機嫌取り」という意味だ。チケットの買い取り、旅費など費用を全部まかなうことができれば、海外でコンサートを開くこと自体はさほど難しいことではない。その費用(チケット全席買取費用など)は「宣伝費」「事務所助成費」などの名目でレコード会社なり、マネージメント会社なりが払うことが多い。

むしろ注目すべきは、先に述べた(マスメディアのやらせである)カギカッコつきの「海外進出」がニュースになり、そういう話を喜ぶという日本人の心的特性であろう。「海外でも受容されるインターナショナルなポピュラー音楽」というのはJポップのファンタジー(広告宣伝戦略)であることを思い出して欲しい。そうした日本人の「海外進出願望」を上手に(国内向け)宣伝に使っているともいえるのだ。(中略)

「乏しい音楽アクセスへの多様性」消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。まず価格の多様性がない。日本盤CDは「再販売価格維持制度」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。(中略)日本のレコード産業は価格競争という他産業(諸外国の音楽分野)ならごく当たり前の競争を公的な規制によって免除された特殊な業態だといえる。(中略)

「公共財として扱われない」特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。(中略)(トークはなく、ひたすら音楽だけを流している多種多様なFM放送ネットワークなどを使い全ての人に開かれた公共財として音楽へのアクセスを担保している欧米に比べ、日本では)お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる。貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。(中略)日本では、レコード産業が音楽を商品として流通させる経路は非常によく発達している。が、その「消費財としての音楽流通」を保管する「公共財としての音楽にアクセスする経路」が非常に乏しい。消費者としての立場で見れば、高値で価格が固定されたレコード(CD)、局数の少ないFM放送と、日本の音楽市場は選択の多様性に乏しい。(中略)

「政治権力との癒着・腐敗」90年代、日本のポピュラー音楽産業が巨大化し、社会的なプレゼンスを大きくした結果、それまでにはなかった現象が見られるようになった。政府行事への協力である。(中略)こうした政府行事への協力は「Jポップ産業複合体」の成立がなければ起こらなかった現象である。というのは、それまでお互いに縁のなかった政府・政界とポピュラー音楽業界の橋渡しをしたのが広告産業(電通)だからだ。

筆者の取材に対して電通広報部は、沖縄サミットを政府とJポップ産業を仲立ちした案件として認めている。05年3月から愛知県久手町で開かれる日本国際博覧会(愛知万博)の公式イメージソングである「I'LL BE YOUR LOVE」は、今上天皇在位10年記念の「奉祝曲」と同じ元X JAPANのYOSHIKIがプロデュースしている。これについて、ある電通グループ社員は、「政府系行事に強い電通パブリックリレーションズ社(政府・政治と密接な繋がりを持つ電通グループの一企業)と芸能界に強い電通本社とのグループ内での協力がなければ、こうした政府系行事のキャスティングは実現できない」と話している。(中略)

(Jポップ産業と政府・政治との癒着・腐敗の)その暗部を露呈させる事件が起きた。沖縄サミットの翌年の01年10月、安室奈美恵が所属するマネージメント会社ライジングプロダクション(現フリーゲートプロダクション)の創業者で、元社長の平哲夫被告ら9人が東京地検特捜部に脱税の疑いで逮捕された。(中略)この捜査の過程で、驚くべき事件が転がり出てきた。かつて自民党きっての実力者として首相候補の1人と言われた加藤紘一元幹事長の事務所代表に、平被告から一億五千万円もの裏金が渡っていた事実が発覚したのだ。(中略)整理すると、こういうことだ。芸能プロダクションから、政権党の実力者事務所に一億五千万円もの裏金が送られた。その芸能プロダクションに所属する安室奈美恵が、サミットで歌うという前例のない厚遇を得た。(中略)

(Jポップ産業が起こした様々な犯罪により)Jポップという華やかな名称とは裏腹に、ポピュラー音楽産業には(暴力団が表立って歌を取り仕切っていた頃の)「興行」と呼ばれていた昔から変わらない「裏の顔」が続いていることが露呈してしまった。同じエンタテインメント業界でも、映画やゲーム業界からはこうした暗部の存在がほとんど聞こえてこないことを考えれば、ポピュラー音楽産業界は今なお近代化されない特異な一面を抱えていると言える。(中略)Jポップ景気が、テレビにその多くを支えられていたことは、第三章で詳しく述べた通りである。(Jポップ産業のテレビ局の不正発覚事件多発を見ると)もちろんすべてのテレビ出演が金銭や饗応によって決まっているとは筆者は考えない。が、たとえその一部分であっても、(いくつかの事件によって明るみに出たように)その影響力が金銭の授受や接待といった不正な取引によって決められていれば、競争の公正さの信用は失われてしまう。それは同時に、「より良い歌を作り、歌い、送り出す」という公正な競争の疎外であり、最終的にはリスナーの利益を損なう。(中略)

本書で述べてきたCDの登場やテレビタイアップ、通信カラオケといった「Jポップ景気の牽引力」のほとんどは、実は全て「歌」や「楽曲」そのものの質とは離れたところにある。こうした「製品」そのものの質を競うのではなく、広告や宣伝で競争することを一般に「製品外競争」という。テレビ出演をめぐる饗応や買収も、広義には製品外競争の一つといえる。(中略)そもそもJポップ景気そのものが、広告産業やテレビが広告・宣伝という大規模な製品外競争を持ち込んだことによってもたらされたとさえ言えるのである。

98年以降、CDの売り上げが急落し始めてから、音楽産業は様々な「犯人」を挙げ、それを潰すことに実に熱心である。「インターネットからの不法ダウンロード」や「逆輸入盤」などがその例だ。しかし、まったく不思議なことに、その最大の製品である「楽曲」についての自省の声がほとんど聞こえてこない。「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や討論の声が聞こえてこないのだ。そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。そろそろ「タイアップなくとも、人々の心に響く歌を作ろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。
(鳥賀陽弘道「Jポップとは何か」)

日本のマスメディアを支配する巨大プロパガンダ企業「電通」の支配下の一機構として、政治と腐敗しながら癒着し、音楽から可能性を奪い貧しくする抑圧機構そのものと化しているJポップなるものは早く終わるべき、特にタイアップ曲などというものは一刻も早く終わるべき事象であると、本書を読んでいて心から思いました。『電通が支配するわざと平凡に作られたタイアップ曲』などという、音楽を非本来的に貧しくするあり方は、音楽に対する許し難い冒涜としか思えません…!僕は一音楽好きとして、Jポップなるものに非常にやり切れない怒りと悲しみを感じます。Jポップなるものが、日本の人々から自由な音楽を奪い、日本の音楽のクオリティを低下させている巨大要因であることをはっきりと知りました…。

電通・テレビ局による音楽を貧しくしてその可能性を奪う、恐るべき収奪の試みの結集がJポップなるものなんですね…。一刻も早くこの抑圧体制『Jポップ』が滅び、日本の人々に音楽が再び解放される日が来ることを、心から願います。電通とテレビ局に支配される隷従のタイアップ音楽Jポップではなく、多様にして豊かな自由の音楽が日本の人々にあらんことを。

ブライアン・イーノ「A year」より

「未完成」

言葉は発せられ、それは間違っている。「インタラクティヴ」というのはまちがった言葉だ。

ひとつはっきりさせておこう――会話と同じく、文化はその定義上当然のこととしてインタラクティヴである。「インタラクティヴ」な文化について語るのは「インタラクティヴな会話」について語るのと同じく冗漫なことだ。会話においては、少なくとも2人の人間がそれに参加することを選択肢、自分たちの外にある意味と関わり、それらに呼応するのだから、無論それはインタラクティヴだ。文化もこれと同じで、それは、別の世界、あなたや他人の想像の世界と関わってくださいという招待なのだ。その招待を積極的に受けなければ、何も起こらない。あなたは実際には文化の受け身の消費者ではない。なぜなら、「消費する」という動詞がこの文脈で唯一意味を持つのは、それが「関わることに同意する」ということを意味するときだけだからだ。(中略)

では、人々(あなた)が以前作っていたものと、人々(あなた)が現在作っているものの違いは何なのだろう?それは「未完成」というもっと適切な言葉に集約できると思う。その考えは非常に明確だ――使うには、完成させなければならない文化的物体があるということだ。言い方を変えれば、文化の作り手は、純粋に完結した立場の提供から、人々が自分自身の体験を作り上げる足場の提供に移っているということだ。(中略)

根本的には、あなたが買ったレコード(CD)は完成された聖なる品ではなく、あなたが将来変化を加える可能性があるということだ。これは消費者たるあなたが、買ってきたレコードに高価でいわゆる「適正な」装置を与えて尊び、それからスピーカーの間に等距離に置いた椅子に腰掛けあるいはひざまづき、咳をしたり頭を動かさないように気をつけて音楽に奉仕するという考え方であったかつての「ハイファイ」時代と比べてみるといい。事実、文化の使い方に関するこの古典的な考えはほとんど消滅した。(中略)

われわれはもう、文化の作り手と文化の消費者の間に際立った区別を感じていない。文化はわれわれが望むままに使い、生活に組み入れるためにあるのだという感覚だ。われわれは家を掃除するときにフォーレの「レクイエム」を流しても後ろめたさを感じないし、ヴェルサーチのジャケットにジーンズを合わせることも臆さない。ミックスしてマッチさせる。自分自身の文化的主張をするのである。(中略)

「未完成」というコンセプトは、われわれが仕事に使う文化的道具について、われわれが「アーティスト」かつ「消費者」として取るべき態度について、それらに役割がどれほど日増しに重要になっているかについて、新しい考え方を提示する。それはまた、新しい哲学的始まりも提示する。われわれはもはや「完成された」作品の消費者なのではなく、様々なものとの会話とインタラクションを行う人間なのだという考えになれてしまえば、「自分の立場をわきまえろ」的な世界は去り、積極的に関与することが楽しいと感じ始めるようになる。物事を、固定され、変えられない、予め定められたものとみるのをやめ、自分が制御できるアイデアを実行に移すようになる。

おそらくもっとも重要なことは、われわれが自分自身に対しても同じように考え始めるかもしれないということである――われわれは、自分のアイデアやアイデンティティを絶えず再検討しリミックスする未完成な、そして完成され得ない存在である、と。これは私の最も明るい見通しなのだ――人々が、人種、民族性、階級、血統といった、アイデンティティについてのますます危険を孕みつつある古臭い定義を捨てて、それを、多種多様で移り変わり、あいまいで実験的で、柔軟なものと考え始めること。そのような変化をもたらす思考の基盤は、単なるエンターテイメントという形を装って、すでにいつの間にか入り込んできていると思う。

音楽から可能性を奪う収奪と抑圧のシステムたるJポップが一刻も早く消滅し、人々に開かれた永遠の未完成なる多様にして豊かな音楽が生まれることを心から深く願います。

参考作品(amazon)
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)
A year
Michael Nyman: Soundtracks [Box Set]
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