坂口安吾「桜の森の満開の下」
坂口安吾「堕落論」(「文学のふるさと」収録)

坂口安吾の『文学のふるさと』によく知られた一節がある。安吾は『伊勢物語』の中の、恋した女を鬼から隠して身構えていたら、翌朝その女が既に鬼に食べられてしまっていたことに気づいた男の、いきなり突き放され、プツンとちょん切られたような空しい空白に対し、「非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない『ふるさと』を見ないでしょうか」と述べている。
ここでいう「ふるさと」とは故郷の土地のことではなく精神的な「原点」とでもいうような意味だ。安吾はその場所を「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」と呼んだ。
(切通理作「情緒論 ――セカイをそのまま見るということ」)

青い文学第六回「桜の森の満開の下」視聴。演出は前回よりよくなった感じですが、作品の雰囲気ぶち壊しのギャグシーンがたびたび挟まるので興ざめです…。何のために原作にはないギャグシーンを入れているのか、全く理解に苦しみます…。原作が高く評価されている一端は、怪奇幻想譚、幻想的寓話として説得力を持つ雰囲気を一貫して保っているところなんですが、それが台無しです…。本アニメは原作にはない、全く作品の雰囲気にそぐわないギャグシーンをたびたび挟むので、作品の雰囲気がそのたびに台無しになります…。折角、今回の首遊びのシーンやクライマックス〜ラストに掛けてのアニメ化演出は良かったのに、全体としてみると、作品の雰囲気をぶち壊しにするギャグシーンによって作品全体の完成度を大きく損ねており、勿体無い作品としかいいようがないです…。幻想譚の非現実性とギャグの非現実性は全く違うものだということを製作者が全く理解していない…。本作の脚本家と監督は、怪奇幻想譚の根幹として作品全体の幻想的雰囲気の一貫性というものがあるのだということを、きちんともう一度考え直した方がいいです。批評家の高原英理氏が述べている怪奇幻想譚についての論を引用致します。

(非現実的世界を描く)怪奇(幻想)の表現というのはこのように部分だけを拾い上げるとその怖さを損なうのだ。怪奇の本当の意味と価値を知るには、そこに示される全体の様相を、言わばひとつの小世界として見なければならない。つまり、その世界を語る口調(文体・表現)(映像ならその技術)、それによって生じるアトモスフィアこそが重要なのである。怪奇とは日常世界と隔絶した暗い場所の表現をめざす意志であり、そのめざすところに同意する者は、総体としてあろうとする世界を批判的に分断してその非現実性と馬鹿馬鹿しさをあげつらうような行為をあえて封じる。このとき語る者と聴く者との共同作業的な性格が生じる。「怪奇趣味」といった言い方もこの相互の関係性が前提になっている。(中略)

ゆえに(怪奇幻想作品に対して)思いいれのない人からはそれ(幻想譚)を嘲笑することも容易く、早くはジェイン・オースティンの「ノーサンガー・アベイ」(1881年発表……メアリー・シェリーによるフランケンシュタイン発表と同年)の頃から怪奇趣味・ゴシック趣味の人はその過度の思い込みを風刺されてきた。(ノーサンガー・アベイは怪奇小説を風刺したパロディ小説)(中略)

逆に言えば、怪奇の表現は語り口が全てなのだから、その世界を追求する者に未熟な技巧・下手な語りは許されない。怪奇小説には極度に人工的(意識的)なスタイルが必要といわれる所以である。(中略)

それは言い換えれば、決して部分の叛乱を許さない態度であり、一小説内での全体主義である。部分が勝手に自己主張し始めるようないわゆる「前衛」の手法は怪奇小説には用いられない。それゆえ、この巧緻な建築物は、なるほどゴシック建築がそうであるように、一見堅固そうな威容を誇ってはいても、一部の力の掛かり方が別の方向を向いていると容易く崩壊してしまう。それゆえ、意図しない僅かな手違いが全体を壊してしまう危険も常にある。

怖い話の途中に、不用意に間抜けなエピソードを挟むのは怪奇の作法に反するのだ。
(高原英理「ゴシックハート」)

以前触れた近藤ようこさんの漫画版「桜の森の満開の下」は原作を活かし、きちんとした一貫性を保っています。今回のアニメ版は折角坂口安吾が築き上げた幻想譚「桜の森の満開の下」を、原作にはない不用意に間抜けなエピソードを挟みまくることで台無しにしてしまった作品と言えると思います。なぜ原作にはないギャグシーンを挟み込んで雰囲気を台無しにするなどといった演出方法を取ったのか、理解に苦しみます。結果、原作とも違い、原作風刺パロディほどの勢いがある訳でもない、極めて中途半端な作品になってしまっている。原作に忠実に演出したシーン(今回の首遊びシーン、ラストシーンなど)の演出が良かっただけに、原作にないシーン(主にギャグシーン)によって全体としての出来を大きく損ねる作品となっていることが極めて勿体無く、非常に残念に思います…。製作者が原作に真面目に取り組まなかった結果が如実に現われてしまったアニメの一例という感じですね…。

次回の青い文学は夏目漱石の「こころ」、僕は昔から夏目漱石の小説大好きでして、「こころ」は僕のとても好きな小説なので、製作者のお方々は原作に真面目に取り組んで、夏目漱石に胸を張れる作品をきちんと仕上げて欲しいと思います。

原作小説「桜の森の満開の下」の考察について少々語らせて頂きます。この作品の考察としてよく取り上げられるのは、外見的なものと、総体的なものの差異(二重性)ということでして、桜がその二重性のシンボルモティーフになっているんですね。序文から既に「桜は美しい、けれどその真実は不吉であり、真実を見るものだけがそれを感じ取れる」という設定になっており、男(山賊)はそれ(桜の不吉さ)を感じ取る、つまり真実を感じ取る能力を持っている。男は女の外見を欲望したゆえに女の不吉な欲望に従い、女の欲望(都での首遊びというモティーフで表現される他者を死に至らしめる欲望)と一体化していく。男は桜の下で女の真の総体としての不吉な欲望(鬼という形で表されている)を感じ取って女を殺すけれど、殺した女は死体になったら、それは鬼ではなくただの女であった。男こそが鬼であり、男こそが他者の死を望んでいたことが現われてしまう。最後に男自体が消えてしまうのは、男自身の総体たる真も不吉な欲望(鬼)と化しており、女(鬼としての欲望)を殺すことで、自分自身を失ってしまったから…、と考察されることが多いかなと思います。僕も大筋としてこの解釈に同意ですね。

前述の流れを思い切り簡潔に言うと「私達は、私が欲しいから欲しいのではなく、他者が欲しがっているから私も欲しくなる。欲望は、私のものではなく、私達が望むという形で現われてくる」と言えるかなと。男は、女の欲望に触れたことで、女と同じ欲望、他者を死に至らしめる欲望を抱き、鬼になってしまった。我々が生きて他者と触れ合わないと生きてゆけない以上、寓話的・幻想的に描かれる作中ほど極端ではないにしても、我々は鬼になってしまうことを避けられないということですね…。「桜の森の満開の下」は坂口安吾が「文学のふるさと」で述べた「アモラル論」が強く出ている作品と言われています。「文学のふるさと」については以前少し述べたことがあります。

フリーゲーム「点滴ファイター」 −KEYのふるさと−
http://mazoero.hp.infoseek.co.jp/31.html#2

坂口が述べた「文学のふるさと」のアモラル論的に考えれば、原作「桜の森の満開の下」に出てくるびっこで醜い女を、従順で心優しい可愛い系のロリキャラに変える、視聴者へ媚びたアニメ版の演出などは坂口安吾が原作や文学のふるさとに込めた思いを全く無視した、原作と正反対の演出と言えると思います…。「文学のふるさと」は坂口文学を読む上での最重要文献だと思うのですが、今回の製作スタッフは全く読んでいなかったようで残念です…。「文学のふるさと」の芥川についての逸話を読めば分かるように、坂口安吾は文学(表現作品)に対し非常に生真面目ですから、萌えで視聴者に媚びる為に虚構的になる今回のアニメ化のような作品は最も嫌うと思います…。「もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。」

坂口安吾「文学のふるさと」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
 
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
 
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
 
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。
 
もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。(中略)

生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
 
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
 
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

今回の「桜の森の満開の下」は、残念ながら、製作者が原作ときちんと取り組まなかった失敗作と言わざるを得ません…。青い文学は原作が変わるたびにスタッフが全面変更とのこと、次回作の「こころ」は心機一転して期待したいですね。「桜の森の満開の下」で描かれていた欲望の対象と欲望が同一化してしまうというモティーフ(ルネ・ジラール「欲望の三角形」)、次回青い文学として放映される「こころ」がまさにこれ(ルネ・ジラール「欲望の三角形」)を全面的に押し出したモティーフの作品でして、実に楽しみですね。「こころ」の先生は、Kのお嬢さんへの欲望を模倣して欲望する、Kの死によってそのことを理解した先生が、乃木大将の欲望を、欲望していないにも関わらず欲望したように振舞って死に至る、人間自らの主体的意志ではどうにもならぬ人間心理を描いた作品として非常に優れた文学作品と思いますね…。

参考作品(amazon)
坂口安吾「桜の森の満開の下」
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