2022年08月23日 06:01

山野弘樹さんの「「VTuberの哲学」序論――多様化するVTuberと「身体」としてのアバター」読了。とても面白い研究で今後の発展を期待します。ただ、個人的には、Vチューバーで最も重要なのは、アバターの多彩さではなく、Vチューバーが中の人の日常を少しずつチラチラッと段階的に見せてゆくことで、リスナーとの間に擬似的なRapport(感情的な親密さ)を形成してゆく技術だと思うので、今回はその辺の技術について書いてゆきたいと思います。

「VTuberの哲学」序論
https://fashiontechnews.zozo.com/research/hiroki_yamano
「穏健な非還元タイプ」とは、配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込むCタイプのVTuberである。現状においてはこちらのタイプの方が圧倒的に多く、例えばにじさんじやホロライブプロダクション所属のVTuberたちは、およそ全員がこのタイプに分類される

まさにこれが重要で、なぜVチューバーが「配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込む」のかという問題です。これは実は、配信者が現実の日常的な行動や言動を見せることは、リスナーとの関係性を深める技術として機能する側面があるんですね。

これは、Rapport(感情的な親密さ)を形成するに最も効果的な方法は、日常では被っているペルソナを外して素の自分を見せている(と相手に思わせる)ことだからです。『特別な相手であるあなただけに見せる素顔の自分』ってやつです。普段は厳格な委員長タイプの子が、自分といるときだけは甘えてくる、これは自分には心を許しているからに違いない、と思い込んで、好感度が急上昇してその子に惚れてメロメロになってしまうみたいなテクニックです。まあ、それが本当に素顔かどうかは、神のみぞしるところですが(恋愛工学技術としてはメジャー)。

ホロライブやにじさんじのVチューバーには、非日常的なVチューバーとしての設定がある訳で、デビュー当初などはその設定を演じている側面が大きいですが、配信歴が長くなり、馴染みのリスナー達が出来て、人気も安定してゆくと、だんだん、配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込むファクターが大きくなってゆく。重みを置く比重が、非現実的な設定を演じることから、現実の中の人としての日常性を見せることに切り替わるんですね。これは、ペルソナ(非日常的なアバターを演じること)を外した現実の一個人としての姿をリスナーに見せることで、リスナーとのRapport(感情的な親密さ)を形成して人気と好感を高めることに非常に効果的だからです。

その点で、Vチューバーの人気と好感は、アバターの多彩さよりは、アバターの中の人の日常性を上手に見せることで、リスナーとのRapportを形成する技術の方がより大きいと自分は見ています。例えば、ぺこーらは、アバターの側面では他のホロメンよりも冷遇されている側面がありますが、アバターがより多彩な他のホロメンよりも人気は高かったりする。これは、ぺこーらは、この辺のこと(現実の自分を出すことでリスナーとの親密感を高める)に極めて意識的で、上手に人気と好感を上げていく能力があることが大きいと思う。

ぺこーらの特徴として、アバターを演じるだけでなく、現実の中の人の話を積極的に行うというのがあり、ぺこーらの中の人の現実の家族の話や、現実の猫の話や、現実の食べ物の話や、様々な現実の話をすることで、リスナーに『ぺこーらはアバターを演じるだけじゃなく、中の人の現実の話もしてくれる。ぺこーらはリスナーに心を許してくれている』と感じさせる効果を持っている。これはぺこーらの物凄く大きな強みで、Vチューバーとして大成功している大きな一因になっていることは間違いないと考えます。

ぺこーらがアバターとしてだけではなく、中の人としても振る舞うのは(猫の話とか)、リスナーにとって心地よいことなんですね。それは、『ぺこーら(の中の人)がリスナーに心を許している』と感じられるから。これはぺこーらに限らず、ホロライブやにじさんじやその他もろもろの穏健な非還元タイプVチューバー達はみんな行っている技術です。

自分は、この技術こそが、Vチューバーが成功した側面において欠かすことのできない重要な技術だと考えます。あえて非日常的なアバターと設定を作ることで、現実の中の人を見せるときに落差が際立ち、それが魅力に通じる。ツンデレで、ツン(非日常アバター)とデレ(現実の中の人の日常)の落差が大きいほど、デレを見せてくれたときに、『心を許してもらっている』感が強まり、Rapportが大きく形成される。穏健な非還元タイプVチューバーのアバターは、ツンデレのツンであり、デレ(Vチューバーが中の人の日常を見せる)がなければあまり機能しないものだと考えています。

Minecraft 35 | 廃村を救う計画始動2 村人の収容及び、役割を授けるにぇ
https://www.youtube.com/watch?v=lTH9nbr85NY
さくらみこ「うさだ〜〜〜〜!!おはよう」
ぺこーら「………なあに(配信と違う寝起きぽい素の声で)」
さくらみこ「寝起き?」
ぺこーら「違う…(配信用の声で)喋ってなかったぺこだからさぁ…」
さくらみこ「今さぁ、配信してるけどいい?」
ぺこーら「わかってるよ…だから『ぺこ』つけたんだろ」
さくらみこ「おまえ、それ言うなよ」

こういう素を見せる配信が人気なことは、Vチューバーを考える上で最も核心的なことの一つだと自分は思いますね。Vチューバーにおいて重要なのは実はアバターではなく、中の人こそ重要なことを示している。

「(Rapportとは)CL(クライアント)がセラピストに好感を持ち、暖かい感情の交流がスムーズに行われていく状態で、感情の分かち合いが出来る関係であり、また、容易に壊れることなく安定し、お互いの信頼が生じている関係である」(心理臨床家の経験知に基づくラポールの定義について)

心理療法的にはRapportの形成はクライアントがカウンセラーを、カウンセラーという役職を超えた一人の人間として信頼することで形成されると見られる。実はVチューバーも同じなんですよね。アバター=カウンセラーという役職という形。



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2022年08月04日 06:22

最近、色々と出てきたVチューバー論を読む機会があったのですが、大体において、どの論もアニメ系のライターさん達が書いていて、Vチューバーの配信をアニメ的なもの(変化や進化)として捉えている。自分はゲーマーで、ゲーム実況Vチューバーを中心に視聴しているので、これは、ちょっと違うんじゃないかと思い、筆を取らせて頂きました。

Vチューバーにも様々な種類がありますが、ここでは、ホロライブやにじさんじやぶいすぽやVOMSやゲーム実況個人勢が擁している『ゲーム実況を中心に配信するVチューバー』について語らせて頂きます。

なぜ、アニメ系ライターさん達がVチューバーをアニメを源流とした流れとして捉えているかというと、『ガワがアニメ調』『アニメ的なファンタジックな名前と設定がある』というところから、『会話が出来るアニメのキャラクター』みたいな捉え方をしているように見受けられますが、この特徴というのは、Vチューバーの本質的なものではないと思うんですね。

Vチューバーの本質は、アニメキャラと全く異なる本質であると考える。

『アニメのキャラクターは視聴者とは異なる物語世界にいるが、Vチューバーはリスナーと共有する物語世界にいる』

ということがVチューバーの本質だと自分は考えています。ゲーム実況配信などではこれは非常に強く現れる。

アニメキャラと、この現実(我々がいるこの現実)の事象について語り合ったりすることはできない訳です。アニメキャラは、この現実とは別の物語世界にいるキャラクターゆえに。でも、Vチューバーとは、この現実を共有していることを前提として、リスナーはVチューバーとゲームの話をしたり、雑談をしたりということができる。

それは、Vチューバーもリスナーも、Vチューバーのファンタジックな設定(異世界の王女とか色々)はあくまで設定であって、そういう設定の下には、中の人がいるということを前提に、お互いに合わせて楽しんでいるからですね。だからこそ、キズナアイ騒動で明らかになったように、Vチューバーもリスナーも『中の人』を本質として重視している。

これは、『本質を受け持つ中の人』がいないアニメのキャラクターは持てない、Vチューバーだけの独自の特徴であると考えます。

この特徴があるからこそ、Vチューバーは、ゲーム実況配信と相性が良いと考える。一般的にゲームプレイヤーの特徴として、ゲームへの『アクティビティ(能動性)』『アクセシビリティ(アクセスのしやすさ)』『リアクティビティ(応答性)』の三つが必要とされ、これはまさに、人気のあるVチューバーが持っている特長でもある。

ゲームを題材に(人気のあるゲームの方が共通言語として優れている。ポケモンetc)、Vチューバーが自分から積極的にゲームを遊んで、その遊んでいるところに大勢の人がはいってこれるようにして、そしてやってきた人々に応答する。

リスナーはVチューバーのゲーム実況とか、ゲームをしている友達と一緒にいて、一緒にゲーム画面を見ているみたいな感覚なんですね。「ここはこうすれば先に行けるよ」みたいなコメントをして、Vチューバーがそれに返答することで、その感覚は更に強化される。

これは、アニメや映画のような『現実とは全く異なる物語世界を鑑賞する』タイプの鑑賞体験とは全く異なるものです。

この『一緒に遊んでいる感覚』において重要なのは、それが楽しい体験かどうかで、そこでVチューバーの話芸が重要になってくる。人気のあるVチューバーは、ホロライブにしてもにじさんじにしても他の企業勢や個人勢にしても、物凄く話芸が上手い。おもわずほっこりするような話とか、笑っちゃうようなリアクションとかを上手くリアルタイム実況中に入れてきて、『楽しい友達と一緒にいる』ような感覚にさせる。

これは、完全に芸、きわめて優れた芸の才能であって、努力と実力が現れる世界です。楽しませるための毎日のネタ作りが大変なことは、ぺこーら(Vチューバーの中においてもこの才能がずば抜けている一人)が言っていますね。

ラプちゃんとギリギリ泥酔トークするぞ!!!!!!!ぺこ!【ホロライブ/兎田ぺこら】
https://www.youtube.com/watch?v=50NDqtWwZH0
ラプラス「(毎日配信を楽しんでいる)ぺこらさんはめっちゃ凄いと思いました」

ぺこーら「でも配信めんどくさいと思うときもあるけどね。
それには理由があって、楽しいときは楽しいけど、毎日やっていると、配信はネタがあるじゃん、ネタがなくなってくると、考えるのに時間が掛かって、やることがないのがだるいっていうか、配信はしたいけど、やるのがないから、それ考えるのだる、めんどくさってなる」

ラプラス「めっちゃわかる」

ラプラスとぺこーらの二人が言っていますけど、Vチューバーって究極的には中の人の芸の世界なんですね。いくらガワが可愛いアニメ調のキャラクターでも、中の人に芸の才能とそれを活かす努力がなければ売れることができない。その点で、ユーチューバーと同じなんですね。

Vチューバーが何から来ているのかと考えたら、ユーチューバーの芸の才能や、ゲームを一緒にやる現実の友達をネットワーク上の偶像化する、みたいなところから来ている訳で、アニメやアニメキャラクターから来ている部分は、寧ろかなり非本質的な部分ではないかと思います。

個人的には、Vチューバーの芸の才能を非常に高く評価しているので(余談ですが、たとえば、毎日毎日高レベルな配信しているぺこーらとか、笑っていいとものタモリさんタイプだと思っている)、そういったところに着眼してVチューバーの配信を見て頂けると嬉しいなと思いました。

最後に余談ですが、今、ホロドラクエ10コンテストが開かれています。DQ10プレイヤーはぜひに!

【ホロドラクエ10コンテスト】開催のお知らせ
https://twitter.com/hakuikoyori/status/1554074610588459010

DQ10でぺこーらをどうしても作りたくて

キュートなウサミミ(白)
ヴィーラの衣上(白・白)
学園女子の夏服下改(白・白)
ヤマネコグローブ(黒・白)
スイートヒール(白・茶)
髪型 人間女子供二色型18(しらあい・ピュアスノー)
目の色 こがね色
肌の色 カラー2
りんかく タイプ1
おおきさ おおきめ
くちべに しゅいろ
傘アクセ ファーショール
ぴんくほっぺシール(ベビーピンク)
豊穣のリーフ(サンセット)人参の代わり

みたいな形で作っているんだけど、スイートヒールだと絶対領域が出来てしまう。絶対領域作らない形でぺこーらスカート&タイツを作るにはどうしたらいいんだあああ!!だれかおしえて…(他力本願








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2022年02月25日 10:16

タコピーの原罪12話を読了。今回も素晴らしく面白かったですね。特に、舞台が高校になったことで急激に性愛的な要素がクローズアップされてきたのが面白い。特に、まりなちゃん、東くん、しずかちゃんの三角関係に、フェティシズム的性愛と人格的な性愛のすれ違いが起きている悲喜劇が見事ですね。ただこの辺は事前に知識が必要なので、今回はそれを簡単に説明したいと思います。

タコピーの原罪、東くんの目が12話ラストでハートになっていることから、明らかに彼はフェティシストなので、まず、その辺を簡単に説明しますね。フェティシストとはフェティシズムを持つ人のこと。フェティシズムとは、性的愛着の対象が通常の性的象徴から逸脱した肉体的特徴や物品や行為に固着していることを示す言葉。フェティシストとして有名な漫画のキャラクターではジョジョの奇妙な冒険の吉良吉影がいますね。

フェティシズムの種類はハヴェロック・エリスらにより分類され、分類の中にはタコピーの東くんのフェチである、髪や瞼もある。東くんはストレート黒髪の二重フェチですね。フェティシストの男女比の割合は男性が極端に多いとされ、原因は不明です。その為、女性には中々理解されずらい特殊な性癖とされています。

なぜ、フェティシスト(比率的には男性が圧倒的)が、靴とか、毛皮とか、通常の人にとって性的愛着の対象にならないものに対して性的愛着を抱くのかは、実はよくわからないのですが、仮説としてフロイト心理学では幼少期や少年期の性的固着に失敗することが関係するとしている。吉良吉影のモナリザのエピソードはこれを完全に下敷きにしていますね。

吉良吉影「わたしは子供のころ...レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」ってありますよね...あの絵...画集で見た時ですね。あの「モナリザ」がヒザのところで組んでいる「手」...あれ...初めて見た時…なんていうか…その…下品なんですが…勃起…しちゃいましてね…」(荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」)

この吉良吉影のエピソード自体が、三島由紀夫の聖セバスチャンの絵でオナニーしたエピソードをモデルにしていると思われます。三島は、仮面の告白や金閣寺など、フェティシズムに囚われた男性を描き続けた作家です。彼自身も、聖セバスチャンの絵などでマゾヒズムを目覚めさせられたと語っていますね。フェティシズムとマゾヒズムは関連性が強い性的倒錯だといわれています。

「その絵を見た刹那、私の全存在は、在る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたえた。この巨大な張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きを始めた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った」(三島由紀夫「仮面の告白」)

上記は吉良のエピソードのモデルとなった箇所ですね。タコピーの原罪の東くんの場合も、吉良吉影と同じく、幼児期の性的固着に失敗したケースかなと考えています。

「他の如何なる形の性的倒錯にもまして、フェティシズムは、体質の先天的状態によって条件付けられることは最も少なく、明らかに偶発的な結びつきや早期のショックによって最も決定的に引き起こされる(略)「フェティシズムは、感じ易い、神経質で小心な、早熟な人間のうちに、即ち、多少とも神経症的な人間のうちに現れやすい傾向(略)(多くは)生涯の初めのうちの性的な何かの挿話のうちに決定的な出発点」(ハヴェロック・エリス「性心理研究」)

タコピーの東くんの中でも、東くんママの外見と東くんの性愛との関係において、何らかのエピソードが発生してしまった可能性が高いと思われますね...

フェティシズムの大きな特徴は、何らかの特徴、物品、行為に対する愛好であり、それは人格に対する愛ではないということですね。つまり、東くんが好きなのは、黒髪ストレートの二重であって、その特徴を持つ人間全体ではないということです。これはタコピーを読む上で理解しておく必要があると思います。

タコピーの原罪の東くんは、『可哀想な女の子』が好きなのであって、その女の子自体が好きなのではないと考えられます。なのでまりなちゃんと恋人関係になった。しかし、それ自体(=可哀想な女の子という属性が好き)なのも一種のフェティシズムであり、『黒髪ストレート二重の女の子』に対するフェティシズムの方が可哀想フェチよりも圧倒的により強かったのが12話ラストの描写でしょうね。

まりなちゃんやしずかちゃんの愛が、人格的な愛(相手を人間として愛している愛。しずかちゃんはチャッピーへの愛なので人間ではないですが...)なのに比べると、東くんの愛がフェティシズムの愛(愛好する象徴だけを愛する愛)なのは、上手い描写ですね。後者なので、しずかちゃん(=黒髪ストレート二重)を見ただけで、ずっと付き合ってきたまりなちゃんを簡単に忘れてしまえる訳です。

フェティシズムがなぜ男性に多いのかはいまだによく分からないんですが、男性の性的処理はかなり単純な起こしやすいもの(男性器に肉体的刺激を与える)なので、逸脱した空想から起きる一種の刷り込みが起こりやすいのではないかという説もありますね。創作においてフェティシズムを愛と勘違いするのは、悲喜劇として面白いテーマですね。

東くんのフェティシズムの愛と、まりなちゃんの人格的な愛が、すれ違いを起こしているのは人間社会において凄くありがちな悲喜劇(女性のフェティッシュな属性の部分しか愛せない男性と、その男性全体を愛している女性のすれ違いの悲喜劇)なので、これを確り描けるところに、タイザン5先生の凄みを感じますね。




仮面の告白 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社
2020-10-28


金閣寺 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社
2020-10-28


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2022年02月18日 01:33

タコピーの原罪11話読了。これは素晴らしい。今までの展開を全てひっくり返す見事な展開。まりなちゃんとタコピーが2022年に先に出会っていたことも驚かされますが、自分が一番、感銘を受けたのは、しずかちゃんと、しずかちゃん父の描き方ですね。

タコピーの原罪は人間は多面的な存在であり、ある人にとって愛の対象が、別の人にとって憎悪の対象であること、またそれはひっくり返ることを上手く描いている。人間は統一的な存在ではなく分裂的な多面性の存在であるということですね。下記とか分かりやすい。

「私の心と私の言葉の間には、決してうめられない溝がいくつもあって、それと同じくらい、私の文章と私の間にも距離があるはずだ。

でも一般にみんな、日記に向かうとき素直になっているような気になっている感じがして、気持ち悪いから何となく日記は気取っていて、いやなのだ。
 
本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHなお姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人もそうだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。
 
変なの。」(吉本ばなな「アムリタ」)

人間は分裂的な揺れ動く存在であり、統一的ではないということですね。しずかちゃんと、彼女の父親の関係はそれを上手く描いている。

10話までのしずかちゃんはチャッピーのことを第一に考え、チャッピーに依存しているように見え、確かにその側面はあったでしょうが、11話でしずかちゃんのチャッピーに依存する気持ちは吹っ飛んでしまった。しずかちゃんは自分の父親が、自分の異母弟妹を愛しており、しずかちゃんのことは路傍の石としか見ていないことを知り、チャッピーへの依存の気持ちは吹っ飛んでしまった。

しずかちゃんの中にあるのは、父の愛を独占する自分の弟妹に対する激しい嫉妬と憎悪。そして自分を捨てた父に対する憎悪です。その嫉妬と憎悪から彼ら(父方の家族)をハッピー道具を使い亡き者にして破滅させる為に、『自分の弟妹がチャッピーを食べた。だから彼らの胃を開く』という滅茶苦茶な理屈を組み上げている。

この理屈は、しずかちゃんは未成熟なので、チャッピーへの思いを遥かに超える自分の中の憎悪と嫉妬を言語化できないゆえに、代替的な理屈が働いていることを示している。極めて文学的、純文学的な描写で素晴らしい。ドストエフスキーとか彷彿とさせますね。

また、これはしずかちゃんパパにも言えて、ツイッターなどは、しずかちゃんパパを非難する囂々たる声で溢れていますが、タイザン5先生は、しずかちゃんパパは、しずかちゃんの異母弟妹、自らの家族(しずかちゃんとその母以外の家族)に愛を注ぐ、裕福で満たされた幸せな男性であり、幸せな愛に溢れた家庭を築いていることをしっかり描いている。これにより、しずかちゃんの行おうとしている憎悪と嫉妬に塗れた残虐な復讐、その為にタコピーすら手に掛ける行為こそが真の邪悪そのものであるという描写を意図的に行っている。これが素晴らしい。

人間というのは、悪の塊とか善の塊みたいなものではなくて、ある人にとっては、善き人であり、愛に満ちた関係である人が、別の人にとってみれば、悪しき人であり、憎悪に満ちた関係であるということは、往々にしてある訳です。

これは、古代から芸術、特に文学の大きなテーマですね。ドストエフスキーの罪と罰のラスコーリニコフもマルメラードフも一概に悪人とは言えない訳です。少年ジャンプの世界だと夜神月なんかもそうですね。ミサミサや夜神粧裕にとって彼はかけがえのない良き恋人であり、良き兄な訳です。同じことがしずかちゃんパパにも言える。

少年漫画では、極度の単純化が行われ、人間を悪の塊とか善の塊みたいな統一的なものとして描くことが多いですが、タコピーの原罪のタイザン5先生は全く逆の描き方をしている。これは、極めて純文学的で、素晴らしい作品だと感銘を受けておりますね...

「(どんなに純粋無垢な子供ですらも)もしかすると、僕たちは悪い人間になるかもしれないし、悪い行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑い、ことによると、さっきコーリャが叫んだような『僕は全ての人々の為に苦しみたい』という人たちを意地悪く嘲笑うようになるかもしれません」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)



アムリタ (上)
吉本ばなな
幻冬舎
2015-10-09


アムリタ (下)
吉本ばなな
幻冬舎
2015-10-09






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2022年02月04日 13:43

タコピーの原罪9話を読んでぶっ飛びました。しずかちゃんが完全なる悪、純粋な悪、自らの利益の為に自らの意志で男性を惑わせて破滅させる純然たる悪のファム・ファタールになっている。以前、本ブログにて、しずかちゃんは、邪悪なファム・ファタールではないということを書きましたが、訂正しなくては…。しずかちゃんは近代的な邪悪なファム・ファタール存在ですね…。

この物語(タコピーの原罪)の上手いのは、意図的にしずかちゃんの内面を描くことを徹底的に避けているので、タコピーにも読者にもしずかちゃんの内面は分からない。その為、いつからしずかちゃんが邪悪なファム・ファタールとして覚醒したのかは不明ですがが、現行の9話でしずかちゃんが完全なる邪悪として描かれたことで、タイトルであるタコピーの原罪の意味、キリスト教モティーフは、とても分かりやすくなった。

しずかちゃんの身体にタコピーが乗っていつも一緒に描かれていた意味。それは、しずかちゃんが、リリスであることを示している。ジョン・コリアの「リリス」を見ると一目瞭然です。人類に原罪を齎したアダムの最初の妻リリスは西洋美術において、蛇をまとわり付かせたファム・ファタールなのです。タコピー=蛇、しずかちゃん=リリスで作中のメインとなる全ての意匠(しずかちゃんにタコピーが乗っている姿)の謎が解けましたね。

ジョン・コリア「リリス」(1887作 パブリックドメイン)
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しずかちゃんが邪悪なファム・ファタールとしていつから覚醒したのかは現状では不明ですが、私は、タコピーによるまりなちゃんの殺人を「魔法」としてしずかちゃんが肯定した時からではないかと思います。「魔法」のシーンでは、しずかちゃんは何も実際の行動はしていないから罪はないという意見が多かったですが、キリスト教は内面、すなわち心の罪を重視する宗教です(「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」マタイ福音書)。タコピーの原罪は題名や上述の意匠のように、キリスト教を極めて強く意識した作品ですので、まりなちゃんの殺害を心の中で肯定したとき、しずかちゃんは完全な悪の存在になったとキリスト教的には考えられます。

しずかちゃんは、その悲惨な境遇から、無垢な善に近いヒロインとして好意的な目線で見ている読者(私も含まれます)が多かったですが、これは、サロメの逆パターン(聖書に記述されるサロメはヨハネを積極的に害そうとしたのではなく、母のメッセンジャーをしたにすぎなかったが、様々な芸術のモティーフとして取り上げられる中で鑑賞者から悪のイメージを付与されてゆき、それがオスカー・ワイルドの戯曲にて結実した)なのかもしれません、すなわち、悲惨な境遇にある美少女は善性を持っていてほしいという読者(鑑賞者)の先入見を裏切ることのできる、邪悪な存在としてしずかちゃんはタイザン5先生により最初から造形されていたのかもしれません。

また、東くんは救われてほしいという意見が多いですが、それも次の二つの理由により、ないと考えます。

まず一つは、キリスト教は情欲に惑わされることに対して非常に厳格な宗教であることです。純然たる悪のファム・ファタールしずかちゃんの色仕掛けに引っかかって簡単に悪の片棒を稼ぐような男性(東くん)には、色欲に惑わされて篭絡されて悲惨な最期を遂げたホロフェルネス(ユディト記)のような運命が待ち受けているだろうと考えます。特に東くんは彼自身の内面(観念)がしずかちゃんの悪(盗みの唆し等々)に落とされているわけで、単純な肉体的魅力に篭絡されるよりも、キリスト教的には遥かにより救い難い感じですね…

吉本隆明「(キリスト教の特徴は)姦淫することなかれというような、そういう律法、ないしは掟に対して、非常に観念的な、大変観念的な領域にまで拡張しまして、つまり、心の中で色情を抱いて異性を見たらもう姦淫したんだという風に言っているわけです(略)そういうものが、キリスト教時間的には、あるいは空間的に、地域を越えて、一地域を越えて、やはり何と言いますか、生きさせてきた根本にある問題だと思われます」(宗教と自立)

もう一つは、こちらの理由の方が物語論的には大きいですが、タコピーの原罪9話で、カインとアベルをやる為の背景を丁寧に描写していることです。カインとアベルは、創造主の愛を巡るカインとアベル兄弟の嫉妬が人類最初の嘘と殺人に発展する訳ですが、創造主とは、子供にとって親な訳です。カインとアベルは、タコピーの原罪においては、東くん兄弟の親の愛を巡る兄弟の争いとして描かれている訳ですね。9話ではそれがはっきりと描かれている。東くんは、創造主、すなわち東くんママの愛を独り占めする潤也くんのことをカインのように憎んでいる訳です。

9話からは、カインとアベルの悲劇を見事に再現する以外の何ものも見えない。いまだに東くんが救われることを願う人々の願いを美しく裏切り、そして深読みする人々の期待に応え、おそらく10話は東くんが想像を絶する破滅を迎える素晴らしく美しき悲劇の地獄となるでしょう。それを読むときのこと、そして愛する登場人物(東くん)が滅び行く姿を見る読者皆のカタルシスの喜び(アリストテレスは、優れた悲劇の条件として、悲劇的運命を迎えて破滅する人物が、鑑賞者から愛される人間、すなわち極悪人などではない、善良さを持つ人間であることを挙げた。そのとき、カタルシスの条件たる恐れと哀れみが誕生する。ゆえに極悪人のまりなちゃんよりも善良な東くんの破滅の方がより優れた悲劇的)を思うと、まさに、「偉大なる劇作家と歴史の目撃者に!!」という感興になりますね!なんと…なんと素晴らしい…



小型聖書 NI44 (新共同訳)
日本聖書協会
1988-10-01






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2022年01月21日 10:36

タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックス)
タコピーの原罪7話「タコピーの告解」読了。キリスト教における原罪の位置づけ、原罪と赦しと告解の関係、そして回心を凄く上手く描いていると感心しましたね。

まりなちゃんママ「お願いします。まりなを返してください。どこの誰だか存じませんが、まりなはお腹を痛めて産んだ大切な娘なんです。まりちゃんごめんね。いいママじゃなかったよね。でも大好きだからお願い帰ってきて…」
(タコピーの原罪 7話「タコピーの告解」)

ただ、ジャンププラスのいいね順コメント欄では、まりなちゃんママは救い難い根っからの悪党、自己の現世的利益しか考えておらず、タコピーの正体を看破したのも、罪を悔いてまりなちゃんを返してと嘆願するのも、単に自分の利益だけを考えた結果であるという意見が圧倒的に強い。私は、タコピーの原罪がキリスト教をバックボーンにしていることから、こういった意見は誤った解釈だと思うので、その辺を少し解説させて頂きますね。

キリスト教が世界宗教となった要因の一つとして挙げられるのは、キリスト教が現世救済的な、現世の利益に物事を還元する宗教というよりは、もっと精神的な、心なる心の回心と救済を重視する宗教であったからとされています。キリスト教では、外的な振る舞いよりも、本心からの信仰が重視されていて、自らが原罪を持つ罪人であると認め、それを虚心坦懐に悔いる告解が、神の赦しに繋がるとして、根幹的に重要視されているんですね。キリスト教の精神性を示す言葉としては、イエス・キリスト自身の言葉であるとされている、「全て自分自身を高くするものは低くされるだろう。しかし、自分自身を低くするものは高くされるだろう」の言葉とか有名ですね。

「(ファリサイ人は)週に二度断食をしており、十分の一税を払っていることを神に誇示した。それに対して徴税人は、自分が罪人であることを認め、神に慈悲を乞うていた。イエスは、自分が義人であると自認し、他人を軽蔑している幾人かの聴衆に向かい、徴税人の方がファリサイ人よりも神に義とされて家路につくであろう、と言い、その理由として冒頭に掲げた言葉を語っている」
(聖書名言辞典)

キリスト教では、良きものは、現世利益的な地上の横のルートではなく、魂への呼びかけとして超越的な天上のルートから垂直に来ると考えるんですね。なので、天上とのルートが開かれていることが大切で、天上の神を人間が欺くことはできないので、本心から相対することが求められます。そこにおいて自らの罪を心から認め告白する告解は、地上の人を天上と繋ぐものであり、自らの罪を認めない人々(全てを現世的な外形的行動で判断する人々)よりも、天上と相対して罪を認めて悔やむ人々の方が天上に近いとされるんですね。

この現世的なものを越えた垂直なルートの最も根幹となるものが、罪を認めて告白して悔やむ告解と、そして他者への愛(≠自己愛)だとされていて、タコピーの原罪7話は、このキリスト教的な精神を凄く上手く描いているなと。まりなちゃんママは、まりなちゃんを失うことで、まりなちゃんを本当に心から愛していたことと、自らの罪(虐待)に気づき、タコピーに告解する、そしてタコピーがそれ(まりなちゃんママのまりなちゃんへの愛)を目の当たりにすることから、タコピー自身も自らの罪に気づき、天に告解するという流れが美しく素晴らしい。

この流れに対し、まりなちゃんママは根っからの悪党で、ただ自己利益だけ考えているとか言って非難するのは、流石にうがちすぎではと思いますね。こういった非難からは、先のイエスの言葉を思い返せば分かるように、原罪と告解と愛、心が相対することを重んじるキリスト教的な精神性が全く無いことが分かります。

まりなちゃんママは自分のことを考えているだけとして非難する、ジャンプラいいねコメント欄的な流れは、悪い意味で俗流ニーチェ主義というか俗流フロイト主義で、なんでもかんでも現世的な打算に還元する流れですね。でも、キリスト教って、そういう現世的打算を超える他者への愛の精神性があるということを示す宗教であるんですね。だからこそ、世界宗教になったと考えられる。タコピーの原罪7話での、まりなちゃんママとタコピーの告解は、そういった精神性を示していると考えますね。だからこそ、タコピーの原罪7話「タコピーの告解」は、残酷な事象の中にあっても美しいし、心を打つんですね…

「イエスが十字架に掛けられたのは偶然ではない。彼は命を奪われる運命だった。現代であってもそうなったであろう。イエスは、万人の中で一番過激な革命主義者だったのだ。彼は達しがたい泉なのだ。その固い大地の裂け目より革命が迸るのだ。彼はカエサルに向き合い、そのカエサルが誰であっても、その不当なる『権力』に対する精神の不服従の永遠なる原理なのだ」
(ロマン・ロラン「クレランボー」)

あと、「まりなはお腹を痛めて産んだ大切な娘なんです」という台詞も重要と考えられ、母子関係に、自己利益、即ち現世打算的なものを越える、天上的な他者への愛の結びつきを見るというのもキリスト教、特にマリア信仰に見られるものでありますね。まりなちゃんの名前は、象徴的にマリアと掛けてあるんでしょうね…。

まりなちゃんママを必要以上に悪として捉えるネットの風潮には、母子関係に対する妬みや憎しみ、異性を嫌悪して、異性の持つ聖性は決して認めないネット特有のミソジニー的なものもあるのかなと感じますね。でも、そういった憎悪の概念に囚われている限り、天上的な善、美、愛は決して理解できないと思いますね。

ロマン・ロラン「人類みなが持つ悲惨さについて考えよう。敵はいない、悪人はいない、いるのは惨めな人々だけだ。そして持続可能な唯一の幸せは、理解しあうこと、愛を持つことなのだ」

母子関係の聖性、その愛を重んじるマリア信仰は、キリスト教よりも更に以前の地母神、女神信仰とも結びついていると言われており、母子関係に現世利益的なものを越えた他者への愛を見るのは、人類の普遍的構造としてあるのかもしれませんね…。以下、最後にマリア信仰を描いたヤコブ・プロトエヴァンゲリオン(ヤコブ原福音書)より引用。出産と母子を讃えている。

「直ちに雲は洞窟から引き、大いなる光が洞窟の中に輝き、私達の眼には耐えられないほどでした。そして少し経つとその光は消え、遂に赤ちゃんが見えました。赤ちゃんは母マリアに近寄ってその乳にすがりました。すると産婆は叫んで言いました。「今日という日は私には大いなる日、かつてないこの見物を見たからです」」
(ヤコブ原福音書)



小型聖書 NI44 (新共同訳)
日本聖書協会
1988-10-01


聖書名言辞典
講談社
2004-07-10








ジャン・クリストフ 全4冊 (岩波文庫)
ロマン・ロラン
岩波書店
2003-09-09


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2021年12月31日 03:24

タコピーの原罪 上 (ジャンプコミックス)
タコピーの原罪、4話まで読了。本当に良くできていて、素晴らしいですね。特によく出来ているのが、「原罪」の意味合いで、タコピーにとって、しずかちゃんはまさにファム・ファタール(運命の女。恋心を寄せた男を破滅させるために、まるで運命が送り届けたかのような魅力を備えている)なんですよね。無垢な存在(タコピー)がファム・ファタールによって悪の道に踏み出し破滅するという、まさに世紀末芸術的な物語になっている。

そして何よりも上手いのが、しずかちゃんは、ファム・ファタールであるけれど、決して悪意がある訳ではないことですね。しずかちゃんは悪意を持つ悪女ではない、これは、詳しくは後述しますが、漫画などで多い近代的なファム・ファタール=悪女の描き方と異なり、極めて古典的かつエポックメーキングなものです。実に見事だと感じましたね。

しずかちゃん型のファム・ファタールは、ただ、その存在と運命が、彼女に心を寄せる男性を破滅へと誘ってしまうのであって、ファム・ファタール自身は彼女に引き寄せられ破滅する男に対して悪意があったり憎悪があったりする訳ではない。ただ、ファム・ファタールに引き寄せられることで、その男の運命の歯車が、破滅へと噛み合ってしまうんですね。

タコピーの原罪も、ファム・ファタール(しずかちゃん)の、彼女に恋する者(タコピー)を破滅させる力は、しずかちゃんの意志でもなく、タコピー本人の意志でもなく、すなわち人間の限られた意志などではなく、様々なめぐり合わせが引き寄せる運命の無数の歯車なのです。これが、タコピーの原罪は凄く上手く描けている。しずかちゃんは、マノン・レスコーと同じで、彼女自身は悪意も何もない純粋な女性だけれど、同時に自分に恋焦がれる存在を滅ぼしてしまう運命を背負っている訳です。

「傲慢、残酷、暴力、悪魔的、邪淫はマノンには全くなく、罪、妖婦・娼婦性といった属性も基本的にない。つまり、それらはファム・ファタルの要素たり得るが、必要要件ではない。そもそもデ・グリュは愛人に関するマノン自身の告白を聞いていてさえ、彼女の悪意・悪気のなさ、いや誠実さを確信するのだから、浮気や快楽の追求を本来的なネガティブな面としてマノンに見出すことは適切ではない」(近代精神におけるファム・ファタルの新しい形)

そして、ファム・ファタールの物語における何よりも大きな選択は、ファム・ファタールに焦れる男性は破滅が分かっていても、そのファム・ファタールに引き寄せられることを止められない、やり直すことができない、絶対的な一回性ということです。タコピーの原罪はこれも極めてよく描けている。タイムカメラが壊れることと、その事象(まりなちゃんを始末した)が結びついて、ファム・ファタールたるしずかちゃんとの避けられないやりなおせない運命が発動している。これが素晴らしく上手い。

「キーツの詩が示唆するのは別のこと、つまり男性が女性に滅ぼされたいという欲望を持つ、あるいは少なくとも滅ぼされることが分かっていてもそれを避けないということであり、それがファム・ファタルの物語上の弁別的、定義的な構成要件となる。男性側のこうした欲望や意志が単なる犯罪的事例・物語をファム・ファタル物語の範疇から排除するメルクマールとなる」(近代精神におけるファム・ファタルの新しい形)

タコピーの原罪と同じくジャンプラの漫画である「エクソシストを堕とせない」では、ファム・ファタール然としたファム・ファタール、サタンの手下であるサキュバスが、主人公を堕落させる為に近付きますが、こういった形態のファム・ファタールは、寧ろ極めて近代的な、運命よりも意志を上位に置き、破滅の責任をファム・ファタールに帰す為のものではないかと言われています。しかし、ファム・ファタールの根源としては、ファム・ファタール本人は、ただ純粋に恋しているだけなどの悪意や打算などは持たないが、それでも自らに恋をするものを滅ぼしてしまう運命を負ったもの、つまり、しずかちゃんタイプのファム・ファタールが根源にあると。

これは、スタイナーが「悲劇の死」にて分析した、ギリシア悲劇から連綿と続く、個々人の意志よりも大きな無数の運命の歯車の動きに人は左右されている、という考え方があり、そこから生まれるファム・ファタールの概念として、あるものなんですね。しずかちゃんが悪いのではなく、運命がそれをタコピーに迫っている、そしてタコピーはその運命を選択すると考える。この観点からおいて、タコピーの原罪は、まさに古典的悲劇の領域に触れえる傑作であると思います。

ジャンププラス タコピーの原罪



悲劇の死 (ちくま学芸文庫)
ジョージ スタイナー
筑摩書房
1995-09-01


ギリシア悲劇 全4巻セット (ちくま文庫)
アイスキュロス
筑摩書房
2009-03-25

ギリシア悲劇 人間の深奥を見る (中公新書)
丹下和彦
中央公論新社
2014-07-11


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2021年06月12日 05:43

DQ10、バラシュナ強さ3、倒しました!!
dq10bs

色んな構成や戦法を試したのですが、必要な腕前は…

賢者 腕前10必要
僧侶 腕前5必要
共有陣魔法 腕前3必要
ひし形杖魔法 腕前2必要
ひし形短剣魔法 腕前1必要

という感じで、ひし形短剣魔法が一番楽です!!腕前に自信がないプレイヤーはひし形短剣魔法で行きましょう。自分もこれで倒しました。バラシュナは臨機応変さが大事なので、最も難しいのは自分以外に本当に強い人を二人(賢者&僧侶)とそこそこ動ける魔法を一人見つけることですが…

賢者、僧侶、杖魔法はバラシュナの行動を読む必要がありますが(陣は硬直が長い&有効に使うために陣を敷くタイムスケジュールの配分が必要)、短剣魔法は、レグナードの魔法に似て、ひたすらシンプルな作業をこなすだけです。攻略のコツを書いてゆくので参考になれば幸いです。

陣形はひし形がお勧めです。共有陣に比べると圧倒的に楽です。バラシュナはHPが低いので共有陣で不安定化するよりひし形で安定した方が、初心者向け。共有陣はタイムアタックとかやってる熟練者向けな感じですね

魔法は、短剣&両手杖、短剣2、どちらでもゆけるが、短剣2の方がパーティ全体の難易度は低い。杖は先に書いたように、短剣より火力は高いが、技の硬直が長い&陣を上手く使うセンスがいる&盾が持てないのでバラシュナの魔法で崩壊リスクがある&一々マホカンタとかやっているとロスが大きいというデメリットがかなりある。杖魔法はある程度の腕前のある人向け。

では、短剣魔法使いの戦い方を。

基本
バラシュナの行動を見てからあわせた行動を後だしで行う(絶対的な基本)

移動は基本時計回り

基本的に毒入れて覚醒ゾーマガイアーデドス

魔法は災禍は無理に敷く必要は無い

魔法はげきりんも無理に行う必要は無い。短剣1なら、げきりんで毒を暴走させると確定で入って便利

幻影でたらアイギスの盾

テンペはAペチで、八門崩絶は横移動で絶対に回避する(魔法がこれらに当たってはいけない!)

マホカンタ中に魔法攻撃して跳ね返されて床ペロのような無様な真似をしてはいけない(両手杖でこれをやると床ペロですが、短剣魔法は簡単に呪文耐性60数パーセントは行くので、魔犬の仮面などで魔結界2入っていれば、暴走ガイアーを跳ね返されても無効化はできます)

テンペ以外も、犬のビーム、レギロのブーメラン、ジェルのビームなどの直線攻撃に狙われているときは、走っても間に合わなそうなときはAペチやツッコミで回避する

アンサンブル
左側なら左側に移動すれば良いが、右だと右に移動すると取り残されるので、右に回避しても良いが、その後はツッコミ移動ですぐ合流しよう

幻影の対処
レギロガ
アイギスして普段どおり。幻影達は全て範囲攻撃に注意する。無理して行動して床ペロするより、一手減らしてちゃんと回避した方が総合的なダメージ効率は上になる

サソリ
アイギスして普段どおり。サソリだけテンペがある&八門の青色とサソリの出す青色が混ざってみずらいので、慎重に。

ジェル
ボーナスタイム。バラシュナのきつい攻撃がこない&ジェルの攻撃もかわしやすいので、ここは、後出しよりも攻撃優先でも崩れにくい。タイムが厳しいときはここで稼ぎましょう

ガルドドン
地割れを必ずかわす。無理に攻撃して地割れや、地割れを避けて八門にあたるなどの無様な真似をしない為に、ここもサソリと同様に慎重に

デルメゼ
デルメゼがコールしたら全員で時計回りに移動して攻撃→またコールで移動の繰り返し。ジャッジなどの範囲は時計回りのままひし形に移動する。ジャッジで無理ぽいときは、わざと玉がある後方に下がってジャッジを受ける→玉が爆発する直前にツッコミで移動すると玉の爆発を回避できる。この辺の回避はデルメゼと同じです

これで勝てると思います。短剣魔法使いなら他の職業や杖に比べるとそれほど難しくはないです。バラシュナは楽しいボスなので、短剣魔法でサクッと倒して称号ゲットしましょう!






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2021年04月30日 18:12

藤津亮太さんの「アニメと戦争」(日本評論社)読了。表題を多面的に分析する本でとても面白かったです。要約は困難で基本的に読んで頂くのが一番ですが、個人的には、萌えミリ(ガルパン等)の分析「良心の痛まない戦争ごっこを可能にする箱庭」の極北(戦争から負の側面を全て漉し取った作)との分析が面白かったです。

アニメと戦争

萌えミリの代表作であるガルパンを作った水島努監督と、ガンダムの富野由悠季監督、ボトムズの盒粁品經篤弔寮ぢ紊虜垢、戦争を描くときの差に繋がっていると感じられるのが凄く面白い分析でした。少し引用してご紹介。

藤津亮太「高橋の述懐からまずわかるのは、太平洋戦争は直接的な体験ではないものの、親世代を通じて自己確立に大きな影響を与えているということだ。表層では第二次世界大戦から距離があるように見えるリアルロボットものでも、1940年代の作り手の底流には、「親の体験した太平洋戦争」と「世相の中で体験したベトナム戦争」があるのだ(略)(高橋の戦争アニメに関するスタンスは)第五章で引用した富野の発言(表現者として戦争の責任を引き受けたい、詳細は後述します)とも通じるところは多い(略)

『ガールズ&パンツァー』が描いているのは、「究極の戦争ごっこ」だ。倒すべき相手も思想もなく、戦闘に特化して「戦争もののおもしろさ」だけが純度高く抽出されている。登場人物をめぐるドラマもTVシリーズでみほの心境の変化を描いた後は、物語を動かすための最低限の要素に絞って、試合内容をエンターテイメントとして見せることに注力している(略)(戦争の負の側面を)見事にこし取ったのである」(藤津亮太「アニメと戦争」日本評論社)

凄く面白い。私はゲーマーなんですが、藤津亮太さんのガルパン分析で思い出したのはテトリスですね。テトリスはソ連の科学アカデミーで研究していた科学者パジトノフが、人間に快楽を持続的かつ最高度に感じさせることに特化したパズルを作るという目的で創り上げたゲームで、思想的なものは何もない。それは究極的に快楽主義的なパズルとして完璧に近い完成度を持っている。

ガルパンの思想もまさにテトリスで、そこでは究極の戦争ごっこで視聴者に快楽を与えるということに完全に特化しており、富野由悠季監督や盒粁品經篤弔持っている戦争に対する情念、オブセッション(戦争の負の側面も表現者として引き受けたい)は何も無い。ガルパンは、視聴者に戦争ごっこの究極の快楽をあたえる為だけに存在する完成度の高い戦争アニメなのですね。

これは実は哲学的テーマでもあって、ノージックやシェリー・ケーガンや最近話題のサンデルなども題材にしている「究極の快楽主義が正しいのか」という問題にも繋がっている。アニメの作り手の世代の差(戦争がまだ身近にあった富野由悠季1941年生、高橋良輔1943年生、二人に比べ出生年が20年離れている水島努1965年生)がそれを生み出しているというのも面白い。

シェリー・ケーガン「(テトリスやガルパンのような究極の快楽主義が人生の目的なのかについての)ここで役立つ思考実験はロバート・ノージックが提唱したものだ」(シェリー・ケーガン「DEATH 死とは何か」文響社)

非常に大雑把かつ単純化してノージックの思考実験を紹介すると、コンピュータに脳を繋がれて、栄養を補給され身体を完璧に管理され、完璧な仮想現実、仮想現実の中にいることも意識できない仮想現実世界で、そこで生涯、全ての望みが叶えられる。そういった人生を送れる未来があったとき、それを選択するか、繋がれないことを選択するか、という思考実験です。

「繋がれることを望む」という人は、究極の快楽主義者で、テトリス万歳!ガルパン万歳!なのでそれはそれで良いのですが(快楽主義は哲学の流れの一つ)、繋がらないことを望む人は、なぜ繋がらないことを望むのか、それが快楽主義が究極の目的なのかに対するその人の答えになると、ノージックらは考えました。

シェリー・ケーガン「体験装置は快楽をきちんと与えてくれる。体験を正しく把握し、精神状態を適切にし、頭の中を相応しい状態にするが、もし体験装置に繋がれた生が、人生で望むことの全てでないなら、望み得る最良の人生には、頭の中を相応しい状態にすること以上のものがあるわけだ」」(シェリー・ケーガン「DEATH 死とは何か」文響社)

哲学の全体的な傾向としては、究極の快楽主義の肯定はリバタリアン(自由至上主義者)に多く、リベラル(自由主義者)、コミュニタリアン(共同体主義者)、コンサヴァティヴ(保守主義者)には少ない感じです。後述しますが、因果による社会との繋がりを認めなかったヒューム(理論的に究極の快楽主義が是とされる方向を示した)と、因果による社会との繋がりを認めたウィトゲンシュタイン(理論的に究極の快楽主義を否とできる方向を示した)の軸があります。

ノージックが思考実験を打ち出した究極の快楽主義に関しては、因果性による社会との繋がりを認めるか(ヒュームVSウィトゲンシュタイン)、また、因果性により社会と繋がっていることを認めた場合はそれも含めて、社会と切断された形で快楽に走るのは正しいのかということが、主に議論されることが多いです。

スティーヴン・マンフォード、ラニ・リル・アンユム「ヒュームは因果性について、私たち自身が外部の観察者であるかのように語った。哲学者がビリヤードの試合を観戦したり、科学者が相関性をただ記録したりすることがある。その際に、彼らはいずれも自分が見るものに干渉しない。実際、実験者というものは、結果に自分が影響を与えないようによく注意しなければならないものである。だがもちろん、結果に影響を与えることができない訳ではない。

私たちは、因果的な世界から切り離されているわけではなく、その立派な一部分である。私たちは因果的な行為者である。つまり、私たちは因果性を開始し、私たちの行為は結果を待つ。私たちはまた、因果性の受け手でもある。つまり、私たちに対してものごとが因果的になされることがある。このように、私たちは因果的な能動性と受動性の両方を持つ。他のあらゆるものとまったく同様に、私たちは世界の因果的な網から逃れることはできない。

ヒュームは意志と行為を切り離したとして批判されてきた。その批判者にはウィトゲンシュタインも含まれる(確実性の問題、共同体説)。未来に行為することへの願望や意図を形成することはできるが(快楽装置に繋がれたい等)、行為を意志することとその行為は同時的で切り離せないように思われる(略)

因果性の介入主義的説明の基礎をなす非常に単純な考え方がある。抽象的に言えば、あなたは原因を変化させることによって、(外側の社会の)結果を変化させることができるという考え方である(略)(人々を薄着にさせたいなら)あなたは室温をあげることで、そこにいる人が服を脱ぐ見込みを高めることができる(略)因果性を無視したら、世界の中で活動することはもはやできない」(スティーヴン・マンフォード、ラニ・リル・アンユム「哲学がわかる 因果性」岩波書店)

この「あなたは原因を変化させることによって、(外側の社会の)結果を変化させることができるという考え方」を富野監督は、自分がガンダムを作る時に重んじていることとして挙げていますね。社会に対するコミットメントの考え方。究極の快楽主義を否とする立場もまさにこの考え方が中枢にあります。

富野由悠季「(ガンダムは)スペースコロニーに移住した人類社会を描きましたが、そこまで生活圏を広げた人間たちを誰がどう統治しているのか、なぜ戦争が始まるのか、という設定に非常に頭を悩ませました。そこに安易な発想は持ち込みたくなかったし、無いアタマを絞って一生懸命考え、必死に勉強して、きっちり書いたつもりです。

領土、生活圏、資源、真の独立……そういう戦争の口実や原因、そして結果についての『ガンダム』の描写は、ある意味で第二次世界大戦の引き写しなんです。

僕にとっては、日本の過去の戦争を意識的に、あるいは無意識的に投影した部分がある。そこには屈折したものも含まれているかもしれませんが」(富野由悠季。藤津亮太「アニメと戦争」)

藤津亮太さんが分析するストライクウィッチーズ(高村和宏監督、彼は水島監督より更に若い世代、1972年生)やガールズ&パンツァーが社会から切り離した快楽主義的部分だけを抽出していることと、富野由悠季監督の姿勢(アニメを通した社会へのコミットメントを諦めない)はちょうど対になっている。富野監督的姿勢が海外のアニメ作品に多いことも「アニメと戦争」で分析されています。

藤津亮太「つまり、ここ(ストライクウィッチーズ)では第二次世界大戦の中から、エース・パイロットとそれにまつわる知識だけが綺麗に抽出されているのである。ここでいう知識はネタと言い換えてもいいだろう。戦争という全体像から切り出された、「おもしろい部分」だけが採用されているのである(藤津亮太「アニメと戦争」)

現在のアニメ業界で、富野由悠季監督的な作り手は凄まじく希少(ほとんどいない)ですが、それでも、富野由悠季監督的な製作スタンスを私は支持しています。ファーストからずっと全てのガンダム大好きだし!!閃光のハサウェイが早く見たいです…

ただし、もう一つ、重要なのは、快楽主義が悪いとは決め付けられないということです。それは逆に言えば、快楽主義以外の選択(装置に繋がることを拒否する選択)が悪いとも言えないということです。これは完全に個人の生き方の問題になり、どちらが正しいか言えない問題、自分で選ぶしかない問題です。ノージックやローティは自分で考えることの重要性を説きました。

この辺の、ストパンやガルパンのような快楽だけが究極の答えなのか、それとも、ガンダムやボトムズ等のアニメが描こうとしたそれ以上の何か(負の側面も含む現実の社会への大きな繋がり)に感動したり感じたりすることがあるのか、ということについて考えながら、戦争を題材としたアニメを見ると、なかなか面白いのではないかと思います。「アニメと戦争」、お勧めの良書です。

アニメと戦争
藤津亮太
日本評論社
2021-03-02






哲学がわかる 因果性 (A VERY SHORT INTRODUCTION)
ラニ・リル・アンユム
岩波書店
2017-12-15


ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片
ウィトゲンシュタイン
大修館書店
1975-01-01











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2021年03月28日 10:13

新都社のweb漫画として始まり、現在コミックウォーカーで連載中のSF漫画「ドキュンサーガ」が、本格派のポストヒューマンSFとしてとても良質な作品で、これはぜひ紹介しなければと筆を取りました。web版は下記の、作者いとまんさんの公式サイトで全て読むことができます。



本作「ドキュンサーガ」の特徴としては、きわめて壮大なポストヒューマンSF、ポストアポカリプスSFとしての設定と、様々なパロディ的面白みを上手く融合させたストーリーテリングが、次々と読者の思い込みを逆転させてゆく見事さがあります。パロディになれた読者を、シリアスな展開でうならせて、その展開も読者のパロディ的な思い込みを裏切って次々と新しい展開を見せていく。それが骨太で壮大なSF設定及びSF的奇想に富んだ表現と見事に合致している優れたSF漫画です。

本作は、如何にも、なろう的パロディとして始まる(品性下劣だが極めて強いなドキュンな勇者が魔王退治を始める)ように見えて、そのパロディとしての思い込みを多重に裏切ってゆくストーリーテリングが、極めて見事です。

例えば、ドキュン勇者は極めて品性下劣ですが、魔王との戦いで、戦士として高潔な部分も見せる。魔王はその勇者を始末せずに生かしておきます。読者は『ドキュン勇者が高潔な部分を見せたからかな』と思う。しかし、ドキュン勇者を魔王が生かしておく理由として、勇者が見せた高潔さとは実は全く違う理由が示される。そして話が進むと更に違う理由が示されるという形で、ストーリーに多重性が含まれており、読者のテンプレ的思い込みからの読みを良い形で裏切って行きます。

ストーリー自体が、テンプレ的な構図をどんどん逆転させてゆく形で、テンプレ的ファンタジーなどに慣れている読者の思い込みを利用して、上手にミスリーディングしてゆく形になっている。様々な構図がテンプレ的なものとは逆になっていて、先が読めない面白さがある。

ドキュンサーガの世界は、現代から1000年程度未来の話ですが、その1000年の間に起きたミュータントと人類の最終戦争の話になってゆき、この長い最終戦争の展開が、物語のテンプレ的なものを上手く外して逆転させながら展開する。

視点としてはミュータント側が主に描かれますが、人類との最終戦争で優勢なミュータント側もかなり突き放された描き方をされており、ミュータント側も人類側も戦争において相手を異なる種(相手を互いに害獣的なものと見ている)であるとして平然と残虐行為を行うアンチヒーロー的な陣営として描かれていて、キャラクターへの感情移入よりも、物語全体としての俯瞰的なスタンスを重んじる展開と設定ゆえに、全体の歴史を楽しむ叙事詩的作品として読むことができる。これが滅法面白いです。

またポストヒューマンSFとしての描写、多様な変異が現れて、種の秩序と安定性が崩壊して、全てが混沌としていく世界を絵として表現するのも極めて上手い。これはまさにSF漫画ならではの面白さがありますね。ミュータントと人類は、互いに交配可能な種でありながら、相手を同族とは認めず、憎しみあって双方ジェノサイドなど残虐な行為を行っていますが、交配可能な点を利用して相手を苗床にすることで戦力を生み出そうともしており、これが皮肉になっている。交配可能なほど近い種にも関わらず、互いに相手を殲滅すべき別種のものとして戦っている訳です。

この絶滅戦争の描写や、ミュータントが元々、現代の格差が極限まで開いた社会で、高ストレス下で誕生したということなど、社会風刺の視点も上手く入っているところもなかなか魅力的なところです。

全般的に極めて優れたポストヒューマンSF漫画、ぜひご一読お勧めです。打ち切りになってしまっては本当に勿体無い傑作SF漫画なので、ぜひ購入して読んで欲しい作品です。SFファンとして、心からお勧めです。

ドキュンサーガ 1 (MFC)
いとまん
KADOKAWA
2021-03-23


ドキュンサーガ 2 (MFC)
いとまん
KADOKAWA
2021-03-23




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